リスク・予防原則に関する連続勉強会 - 第二回報告

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第二回報告

「生態工学は河川を救えるか」 【必読文献】 木村発表  廣野他,『科学』, 1999, Vol.69, No.3
『危険社会』 【必読文献】 立石発表 ウルリヒ・ベック, 1998, 法政大学出版局

木村報告分

感想1:前回の話→今回の2つの文献→次回以降の流れについて

 前回は、中西準子氏の科学的リスク評価手法と、岡敏弘氏の リスク・ベネフィット分析に基づく政策決定手法について扱いました。 これらの評価手法や政策論は、確かに方法がすっきりしていて 明確で客観的な側面がある一方で、様々な問題点も含むことを 議論しました。([k346:00446], [k346:00448]参照)

 今回の文献1)「生態工学は河川を救えるか」は、河川事業を 対象に扱っており、前回の化学物質リスクの話とは大分話題が 異なるように思えるかもしれないけど、「科学がいかに現実の 意思決定に関与するか」という点で同じことを扱っていたと思います。 つまり、前回の文献が

「曖昧な政治のさじ加減で政策選択するのではなく、科学的な明確なルール・方法で政策を選択すべきだ」

という指向があったのに対して、今回の文献は

「科学の知見をそのまま社会政策に適用しようとするのは無理があり、科学と社会との関わりを再考しないといけない」

という考えが根底にあったと。そこで、科学と社会との関わり 方も取り込んだ科学活動として、アカデミズムモードの科学 ではない「社会モードの科学」(GibbonsらのいうモードII科学) を提唱していました。

 この点について、文献2)ベック『危険社会』では「科学的合理性 と社会的合理性」という概念を用いていました。ただ残念なこと に、ベックは「社会的合理性」の具体的内容をほとんど説明して いない。そこで、ここまでの議論を踏まえてその「社会的合理性」 の内容について考えてみると、


(1)一般市民の認識を考慮すべし(第1回勉強会)
(2)地域の個別性・地元の経験知を取り入れるべし(文献1)
(3)科学の限界を認識したときは民主的決定に委ねるのも一手(文献1)
(4)科学者が政治的なアクターであることを認識して、政策形成 過程に位置付けなおすべし(文献1)

といったことが挙げられると思います。(1)〜(4)の事柄がバラバラ すぎることが議論の混乱の原因になったような気もします。 強いて分けるなら(1)と(2)は知識の内容的な事柄で、(3)と(4)は 意思決定の手続き的な事柄と言えると思いますが、結局、 「社会的合理性とは何か」みたく考え出すとちょっとよくわからなく なるので、この概念を持ち出してもあんまりオイシくないという ことかも知れないと思いました。

 ただどちらにせよ、「科学者だけあるいは科学的合理性だけ で政策を考えるのではなく社会的な要素も含めて考えるべき」 という主張はもっとものことのように思えます。今後これをいか にして創っていくのか、ということこそが課題とも言えます。 廣野・清野氏らはこれを実現する制度として

「専門家、利害関係者、関心ある市民、地域専門家などの参加による協同作業グループ」

を提案していました。これについては、昨日の勉強会では
 ・このグループがうまくいく要件は何か?
 ・グループメンバー選定の方法は?
 ・議会や審議会との関係は?
 ・このグループで扱うべき議題は?
といったことを少し議論しましたが、具体的な事例などを知ら ない段階なのであまりうまく議論できなかったように思います。

 ということで、次回以降の勉強会では、科学的専門性が絡む 社会政策の意思決定方法について、「コンセンサス会議」や 「予防原則」など欧米で試行的にはじまっている事例をもとに、 具体的に議論していければと思いました。

感想2:「リスク」の定義について

 「リスク」という概念の捉え方は多様。ベックはかなり抽象的に、 定性的に「リスク」という言葉を使っている。中西氏などは 「事象の生起確率×被害の大きさ」という期待値で明確に 定義している。他の定義の仕方もあるらしい。要するに、 「リスク」といったときは、何か避けたい、将来起こりそうな、 何か不確実なものを思い浮かべているのは皆同じ。 その後で、ベックのように産業化がもたらす嫌なもの全てに対して 包括的な概念としてリスクという言葉を使うか、中西氏らなどの ように、何らかの側面に注目してそれを定量化してリスクを 定義づけるか、という違いが生じていると思われる。

 すると、中西氏の『環境リスク論』第6章で紹介されていた ような一般市民のリスク認知は、要するに一般市民の感覚に 基づいたリスクの定義といえる。(つまり「破滅的」という印象の 高いリスクは大きく評価し、あまり知らない(未知)のリスクも 大きく評価するようなリスク定義)
「不安」などのような心理的要因を、「リスク」の定義式の中に 盛り込むべきなのか、「効用」の算出の際に考慮すべきなのかは よくわからないが、どちらにせよ、どういう場合にどういうリスク定義 をするのが適切か、今後検討していくことが必要だろう。

立石報告分

廣野ほかの要点

新たな研究分野である生態工学は次の三つのエリアに分けられる。
 1:生物学の工学のお互いからの取り込みによる部分的改変
 2:アカデミズム内での学際的専門領域としての生態工学の成立
 3:アカデミズムと社会との協同作業における生態工学
現在は、「河川改修の影響下でのカブトガニの生態の研究」といった エリア1/エリア2にあたる知識が不足している。 ただエリア1では分野間のすれ違いを避けられないので、 これから必要なのは、まずエリア2の専門家の養成である。 しかし、エリア2が導く「真理」を現場に適用するだけでは、 地域住民との兼ね合いにおいて問題が発生しうる。こうした 問題を扱うために、エリア3の生態工学が必要になるわけである。 エリア3の生態工学が成立し有効に機能するための条件は・・・

<アカデミズム側>
・正解が存在しない研究や予測性の低い研究への理解
・研究者の社会的活動を評価するシステム

<社会側>
・行政が議論のための場を設定すること
・参加者の負う社会的責任を明らかにすること
・地域個別的な知識を有する専門家を参加させること

ベックの要点

リスクとは「産業化が〜の被害をもたらす」といった因果関係である。 科学の想定するリスクが社会の見解と違う場合、両者に対立が生じる。 リスクの被害はたしかに当初は貧しい人に偏っている。 しかしリスクは放置されると誰も避けられないほどに拡大し、 リスクの被害は豊かな人にまで及ぶことになる(ブーメラン効果)。 このため、現代社会ではリスク共有が市民運動の基盤となりうる。

科学と社会の関係について

科学が真実を語り社会がそれを受け入れる、というわけではない。 リスクの分野では、異なることを主張する複数の立場が存在する。

この問題を考える上では、立場という曖昧な実体を、 科学的論拠の部分と理由付けの部分に分けるのがいい。 科学的論拠は科学が検証できる事柄である。 実際に検証されているかどうかではなく、 その気になって条件が整えば検証できるということだ。 いっぽう理由付けは検証が不可能どころか、 定式化すること自体が不可能な残余である。

例を挙げよう。「河川改修に賛成」という立場をみる。 この立場の論拠の一つは「このままでは洪水が起こりうる」ことだ。 これは検証可能だ。検証が適切かどうかはともかく、 検証してみることはできる。しかし、「洪水が起こりうる」ことと 「河川改修をすべきだ」ということとの関連は明らかでない。 明らかでないから、適切さを検証するのも不可能である。 つまり、両者を結びつける関連/理由付けは検証されないのである。

理由付けが科学的論拠と立場とを曖昧に結びつけている。 きわめて直情的な立場の場合、科学的論拠はほとんどなく、 理由付けだけで構成される。逆に激論がかわされたあとの立場は、 科学的論拠の占めるところが多くなっている。

科学的論拠と理由付けという概念を、それぞれ 科学的合理性と社会的合理性と言い換えてもいいが、 言い換え表現が示すような対立関係はこの二つにはない。 科学的論拠は指示され取り出され検証されるものであり、 理由付けはそうされない、というだけである。

リスクに関する対立は、論拠と理由付けを使うと、 次の三つに分けられる。第一に立場間の対立、
第二に論拠措定に関する対立、
第三に論拠の妥当性に関する対立である。
なお、理由付けでは対立は起こらない。 それは顕在化していないものだからである。

例をあげよう。第二の対立はあとにまわす。
第一の対立は「改修賛成」と「改修反対」の対立である。
第三の対立は「河川改修でカブトガニは50%以上死ぬ」と
「河川改修でカブトガニは50%も死なない」の対立である。

第二の対立は、論拠としての取り出し方をめぐる対立であり、 「カブトガニが半分死ぬ」のなら止めようという考え方と 「全滅」まで至るのなら止めようという考え方、そして カブトガニの環境が少しでも変わるなら止めようという 考え方の対立である。

命題はいったん措定されれば科学的検証を受けうるが、 命題の措定自体は科学的検証を受けるものではない。
「カブトガニが半分死ぬ」という命題は真または偽であり、
「全滅する」というのも真または偽であり、
「環境が少しは変わる」というのも真または偽であるが、
いずれの命題を論拠/判定基準とするのか、 という対立は科学の埒外にあるものである。

第二の対立はつまり、何を科学的な検証の対象にするか、 そしてどんな基準で検証するか、をめぐる対立である。 もう一つ例を挙げると、「この木を切ると不幸が起こる」 の検証がある。これを検証することに地元の人は反対するだろう。 これは地元の人にとっては論拠として検証されることではなく、 理由付けの一部として受け入れられるべきことだからである。

中西さんの考えるリスク論は、基本的に この第二の対立を調整するためのものである。 すべてをリスクという概念で相対化することによって、 第二の対立を第三の対立に落としていこうとする。 より多くを科学が扱えるようにして、科学のフレーミングの 問題を除去しようとしているのである。

現状では、行政側はすべての対立があたかも 第三の対立であるかのように扱っているふしがある。 しかし実際には第二の対立もあるし、第一の対立もある。

対立のレベルが一から二、三へと進んでいくと、 より議論がかみあいやすくなる。その一方で、 「科学」という特殊な技法を知らないと参加しづらくなる。

また、地元住民の感情において一貫しているのは立場だけであり、 第二の対立や第三の対立を調整することによって、ほんとうに 地元住民の合意に至ることができるのかは明らかではない。

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