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何が、なぜ調査の対象になるのか
─地球環境問題の同定とフレーミング

6月9日 佐藤仁


4 「曖昧さの操作」を読み解く枠組み

 4−1 問題の「はじまり」と「終わり」:時間のフレーミング

 私が去年ハワイに遊びに行ったときにこういうことがありました。80年代の後半に日本がバブル真っ盛りだったころ観光業者がハワイにリゾートを建設するためにどんどん木を切っていました。それに対して地元の環境保護団体が業者に環境を破壊するなとうことで食って掛かりました。

 それに対して、業者は次のように反論しました。

70年前の写真を見ろ。この土地にはもともと森なんてなかったのだ。後から再生した二次林だから、今切ってもいいんだ。

 この話のポイントは、「今やっていいこと・悪いことはある昔の時点や、歴史からサポートされたり、されない」という話です。問題の時間軸を操作することによって自分達に有利になるようにフレームすることになります。

 問題はいつはじまるのか。例えば、

環境問題は1970年代に「環境開発会議」がストックホルムで開かれてからから人々の注目を集めはじめた

 という風に、さりげなく環境問題はそのころ始まったように書かれています。しかし植民地時代に相当色々な国の森林伐採や土地の荒廃は始まっていました。しかし1970年の会議に始まったといわれると、さりげないゆえに気付かないということがあります。

 問題の設定の仕方でいうと時間に限られず「酸性雨の濃度」というものがあります。酸性雨についてもどこからが「酸性雨」かという基準値で、それは問題の始まりを決めことになります。 このように曖昧性にとりくむときにどこから問題とされて、どこまで問題とされているのかを批判的に読み解くのが大事になると思います。

 タイのチークの生産量をあらわすグラフも1970年からのものを見ると、70年代くらいに世の中で環境問題が大変だと言い始めたころにはたくさんあったのに、だんだんなくなってしまったということをあらわします。私達の日常のイメージに非常に近いものです。

 しかしもっと時代をさかのぼってみますと、こういう風になっています。1890年くらいからイギリスがやってきてチークが大量に伐採されているわけです。私達がいわゆる環境問題といって議論する前に相当の量の木が伐採されていたわけです。

 国際機関の統計というは、戦後の統計です。それ以前のデータというのはないものとして扱われます。1950年代くらいから問題を考えるのと、もっと遡るのでは問題が全く違ってくるわけです。新しいデータばかりを扱うバイアスについても注意しなくてはなりません。

佐藤仁



 4−2 技術的な問題とそうでない問題:解決可能性のフレーミング

 『共有地の悲劇』を書いたハーディンは、

環境問題には技術的な解決はない。人間の基本的な道徳観念、あるいは価値するものを変える。あるいはそれを変えさせるようなそとからの圧力がないと環境問題は解決しない。

 といいました。そうはいっても、技術的な開発によって色々なものの確実性は高まっているといえると思います。しかし、途上国の環境問題においては確実性を増すはずの技術が逆に不確実性を増す場合もあるという可能性について紹介したいと思います。

 97年から98年にインドネシアで大規模な森林火災が発生しました。どれくらいの森林が焼失したかというデータは、森林省、環境庁省、NGO、国際機関によって同じ時期を計っているにも関らず推計値はバラバラになっています。このインドネシアの火災は今までの森林火災の中でもっともよくモニターされたものでした。それによって不確実性は低下すると予想されるわけですが、ふたを明けてみると組織によってまったく違う推計値がでているわけです。

 それぞれの組織に、そういうデータを出したい理由があるのでないかというのが今日私がみなさんにお勧めしたい見かたです。

 今までは火災がおきると村人の焼畑が原因になっていたと政府は主張していました。しかしGISでモニターできるようになると政府のプランテーションから火がでていることを主張できるようになりました。 しかしそう主張できるようになったことで、政府は別の言い逃れをするようになります。GISのモニタリングは不十分であるとか、別の科学者は異なるデータを出しているなど、曖昧さを拡張するような言い逃れをします。このように曖昧さを収斂させるはずの技術が、結果的にあいまいさを増幅するようなことが見られたということになります。

 4−3 人為に由来する問題と自然に由来する問題:原因のフレーミング

 原因を追求する行為は中立的に見えるが、実は政治的な行為でありえます。原因を特定するということは責任の所在を明確にすることだからです。誰が悪いのか、誰に解決する能力があるかを明らかにする行為なので、場合によっては政治的になりえます。

 ストーンという人が提示したモデルによると、原因を定めることの政治的な帰結がわかりやすくなります。

結果
行為
 意図された結果 
 意図されざる結果 
主体に目的の
ない行為
媒介的原因
ある意図された結果がデザイン
されていて、実際に担っている
主体そのものには意図がない
自然的原因
主体に目的の
ある行為
意図的原因 偶発的原因
主体に目的はあるが、予想外の要因が
はたらいて結果として意図せざる
結果になってしまった場合


 インドネシアの山火事の例を当てはめて見ます。

 例えば政府は、山火事はエルニーニョ現象で自然現象であり、もとをたどれば先進国が工業活動をしてその温暖化の結果で、政府としてはできることはないという立場をとります。自然現象というのは一見中立的な立場であるように見えますが、一つの立場に立っていることに注意して欲しいと思います。自然によるものだということは、自分達はその責任を負わないということの主張と重なるわけです。

 意図的原因、農民がわざとプランテーションに行って火をつけたという例を挙げることができます。例えば、もともと農民が使っていた土地をプランテーションの業者が横取りして農民は業者に対して敵対心も持っていたので火をつけた。このような説明をするときに農民が目的をもって結果も意図した結果になったという話になります。

 偶発的原因というのは、先程したタイ農民の貧困の話とも関係してきます。農民は無知で、原始的な焼畑をする管理されていない農法なので、火が偶発的に飛び火して燃え広がったという説明になります。この偶発的原因にもとめるということは、主体の無知に原因をもとめることになります。その立場にたつと、農民はよく分かっていないから、それを政府教育しなくてはならないとか、介入をしなくてはならないという発想につながるわけです。

 媒介的原因というのは、山火事の原因となったプランテーションの業者も山火事を意図していなかったということです。様々な種が生い茂っている森の場合は、そう大きな山火事は起こりません。しかしプランテーションは1品種を広範に植えることになります。業者は意図していなかったが、プランテーションという行為自体がデザイン上、燃え広がりやすい構造になっていたということです。

 色々なところに色々な人が、話を引っ張っていくきます。原因の所在を引き出すことで、責任の擦り付け合いをする構造があるということです。




5 フレーミングの環境と意義

 5−1 注目点の配分条件

 環境問題といっても、たくさんの問題があり、私達が注目できる容量には限界があります。問題のごく一部のしか、みなさんの意識や視野に入ってこないわけです。

 私達が何を問題として扱うかも、問題の深刻さや客観的な問題の状況に関係なく、それ以外の問題との比較の中で、ある問題は問題として浮上し、ある問題は大したことのない問題として忘れ去られたり意識に上らないということが起こるわけです。

 環境の持続性というものを議論するときに、私が今日言いたいことの一つは、私達がある問題に注目することは持続的でないということです。私達が身の回りに抱えている色々な問題の外に、環境問題や社会問題があって、そういう問題を考えるのは大変なことになります。

 問題が浮上して注目を集めるのは、ドラマッチックな側面をもっていたり、政治環境であったり、準備されている政策と問題がマッチしたときなどがあります。みなさんも、どうしてある問題が世の中で大騒ぎされるかも考えて欲しいと思います。

 5−2 フレーム分析の意義

 私達はしばしば、答えをどうするかということに執着するわけですが、実はある問いを発しているときに、すでにある複雑な問題の一側面に対してフレームを投げかけています。その問いかたが、実は答えの幅を決めていることが多いわけです。

 開発援助の分野で貧困にフォーカスがあたると、「どう援助できるのか、彼等のニーズはなんなのか、それに対してどう援助ができるのか」というストーリーになります。

 どのような資源搾取が行なわれてきたのかという側面が注目されると、その地域の貧しい人々は視野の中心からはずれて、その地域の外のエリートや開発業者や地主など、資源をさらっていった人達やそれを支える社会構造などが視野に入ってきます。そのことにより、「貧困よりも社会構造をどうにかしなくてはならない」というストーリーになります。

 フレーム分析は、その問いかたで問題は正しく設定されているのかと、私達に反省を迫るわけです。

 環境問題を含め、社会問題というのは反復することが非常に多くあります。反復するということは、私達が構造的な解決に成功していないことになります。解決というときに、表面的な解決に終わっていることが多くて、だから問題が反復することになります。問題を解決しやすいようにフレームを工夫していたのかもしれません。

 私達は今まで何が問題かということに目を奪われてきたわけですが、何が問題になっていないのか、ある問題が出されたときにその陰にどのような問題が隠されているのかということを読み解く力が、フレーム分析をすることを通じて養われるのでないでしょうか。

 明らかに問題だと皆が、分かっているのに何の行動も起こっていない問題は何故なのか不確実性があるにも関らず、あるものの見方が何の実証的根拠もないのに定説として頭の中を循環する仕組みはなぜなのかについても問い掛けてみてください。




6 まとめ:新しい調査のためのヒント

 これから調査をするときにこのフレーム分析というのが、どのようなヒントが得られるかということで今日の話を終えたいと思います。

 まず「問題」の時間的・空間的境界線がどこに設定されているかを考えます。

 特定の問題・定義やデータに権威をつけている力にどのような力が働いているのか。調査の恣意性は結果の使われ方だけにあるのではなく、対象が選ばれる段階ですでに入り込んでいます。

 わかりやすくいうと、今までの伝統的な考えは、科学者や研究者の結果を政治家が使っているというものでした。しかし調査をする、あるいは調査対象を決める時点で、実はかなり政治性が入っているということです。その政治性に注目しなさいというは、それが分かりにくいからです。

 どこに環境問題があるかという特定する作業は一見中立的で、一見科学的で、科学的の衣に包まれているために批判的な吟味にさらされないわけですが、それは非常に政治的な行為です。政治というのは科学の出口にいるばかりでなく、入り口にいるということになります。

 「不確実性」というのは科学の衣を着ているから非常にやっかいです。しかし「不確実性」は開発や途上国の環境問題の中で利用されているので、「不確実性というのを確実性の不在」として考えるのではなく、「不確実性」の中に色々な面白いデータが潜んでいる可能性について是非みなさんに考えて欲しいと思います。

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