環境の世紀VII  [HOME] > [講義録] > 7/14 「最終回ディスカッション」(討議:論点1と学生の質問1)

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最終回ディスカッション7月14日
司会:丸山真人教官紹介
パネリスト:鬼頭秀一講義録教官紹介
後藤則行講義録教官紹介
■ 丸山 :


丸山・鬼頭・後藤

 どうもありがとうございました。それではここから後半の討論につなげていきたいと思います。

 宿題は二つ与えられているんですが、まず論点1、環境問題をめぐる価値の多様性。「環境問題は、さまざまな個人や集団の信念・立場・利害に基づく価値関心に取り巻かれています。そこでは『囚人のジレンマ』や『共有地の悲劇』というように個人の主張と全体の利益が対立的に捉えられることも少なくありません。これらのような、人間―人間関係の問題、個―全体関係の問題はどのように調停されるのでしょうか。また、地域からの視点はどのように関わるのでしょうか。」ということです。今までの話の中で、ある程度考えの枠組についてはヒントが出てきているんじゃないかと思うんですね。



囚人のジレンマ

 例えば、囚人のジレンマとか、共有地の悲劇というのはですね、人間が孤立した個人であることを前提としている。

 例えば、囚人のジレンマというのはですね、犯罪者集団が、悪いことをしたときに捕まって、個別に尋問されると。それで、事前に取引をするってわけでしょ。AとBという犯人が捕まっているときに、Bが黙っている。その時に、Aに「ちゃんと白状すると、お前の罪は軽くしてやる。それでBの罪を重くする」という条件を出す、正確に言うとちょっと違うと思うんですけど。それで「もしお前が黙っていて、Bの方がしゃべってしまえば、お前の罪はうんと重いぞ」と、バイアスをかけた条件を出した時に、あなたはどういう選択をするかということですね。

 自分としてはBがしゃべるかしゃべらないかというのが非常に重要です。無罪放免になるのはAもBも黙って白状しないことです。事実が立証できないわけですから。AもBも自分はやっていません、自分は知りませんと貫くことができれば、二人とも釈放される。だけど、Bがしゃべって自分がだまっていると、一番損をする。だから、Bがしゃべるかしゃべらないか分からないけども、Bがしゃべったとしたら、自分もしゃべっとかないと罪をかぶることになるので、結局しゃべりますということになるんです。

 AもBも黙っていれば一番いい無罪という条件があって、Bがしゃべって自分が黙秘していると一番悪い条件を、例えば、20年の刑を課せられる。だけど、両方ともしゃべった場合は5年で済むという計算をして、じゃあ、ベストじゃないけど、この辺でいいかというところに妥協する。この場合どちらもしゃべる傾向にあるわけです。

 結局そうなると、環境問題も、ベストな解というのはできない。みんなが意図的に働けば、もっといいところに行けるのに行けないことになる、ということの例として、しばしば環境問題を考える時に出てきます。



共有地の悲劇

 そして、共有地の悲劇というのは、いわゆるオープンアクセスという誰でも入ってこれる牧草地がある時に、牛を飼っている人が牧草地に行って、牛を放す。そうするとだんだんと草がなくなっちゃうわけだから、最終的には自分の牛もやせ衰えてしまう、ということが分かっているんだけど、じゃあ、みんなで話し合って、牛を放牧するのを少し控えようということにならない場合どうなるかという話ですよね。

 もし自分が遠慮して牛を放たなければ、その分、非常に長く維持することができる。だけど、自分の牛を牛小屋から出さずにおくと、Bという別の人がそこへ行って、自分が本来行くべきところの草を食べてしまう。そんなことをするんだったら、相手に食べられる前に、自分の牛をそこへもっていって、先に食べさせてしまおう。でAもBもCもみんなそういうふうに判断するので、結局共有地というのは瞬く間に丸坊主になってしまうというような話なんですね。

 いずれも、個人が孤立した個人ということを前提にしているわけですね。だからそれを調停しようたって、それは最終的には独裁者というか、権力が上から押さえ込むしかないんじゃないかということになる。でこの授業ではそうじゃない解決を目指そうという話をしきりにしてきたわけです。で、行きついたところが、コミュニティ的な人間関係、まあ、協調する関係ですね。共感し、共生する人間関係をベースにして考え直そうというところまで、話が来たわけですね。

 そこから先、じゃあ、どうしたら共生、共感の関係が得られるかという問題をつきつけられているのではないかと思います。後藤先生もお答えがありませんというふうにおっしゃっていたわけですけど、その点、考えを一歩でも進めることができれば、と思って、ここで先生にお答えをいただいてもいいんですけど、フロアのみなさんが率直に感じていることを少し紹介していただきたいと思うんですね。こういうことを考えれば少し前にすすめるんじゃないか、とそういう意見がありましたら、手を挙げてください。答えじゃなくてもいいんですよ、答えに行く一歩手前で、こういうふうに考えたらどうでしょうというヒントをくれればと思うんですが。



■ 学生1 :

 ちょっと話が戻るんですけども、環境問題というのはある種の物質的なものですよね。地球環境問題だったら、COが増えているという問題と設定されてきますよね。そうじゃなくて、環境問題が精神的に定義されるものだといわれると困ってしまうんですが。環境問題は、自然界が公共事業によって破壊されるとか、COによって温暖化するとか、仮に温暖化するとすればですけど、そういう問題があるとして、今の生活のありかたをどうしようかと考えるわけですね。

 で、そこからさっき鬼頭先生とか丸山先生がおっしゃったように、精神的な豊かさを見なおそうということになってくると思うんですけど、ただ、その段階の元をたどると、物理的な環境問題に直面していると。それに対して、結局物質的な手段を打たなければいけないわけですよね。もちろん佐藤先生がおっしゃったように、何が問題かという捉え方をするのは大切だということは前提においての話なんですけど。その時に、あげ足を取るようでいやなんですが、丸山先生が、プロセスが変われば量的には変わらなくてもいい、という感じのことを少しおっしゃいましたよね。50%に一律にするのではなくて、下からの積み上げで、とおっしゃったのですが、実際問題それでプロセスが変わったとして、50%に削減しないと対応できない問題に対して、削減できなければ意味がないと僕は思うんですね。少なくとも。それはどういうふうに捉えるといいんでしょうか。




■ 丸山 :

 ちょっと誤解されてたと思うんだけど、プロセスがかわれば結果は変わらなくてもいいんじゃなくて、エネルギーの使用を50%削減するという目標が出てきたときに、その目標を達成するプロセスが大事なんだということで、ボトムアップ式に変えていくことが大事だろうということを念頭においていたんですね。だから、削減目標を国が示すんじゃなくて、それを、積み上げでもって結果的に50%削減の方向にいくような努力をそれぞれのコミュニティができないかという問題をたてたのですが

■ 学生1 :

 50%削減と言うのは何も考えなくても出るもんだと思うんですね。そうすると、あまり変わらないんじゃないかなと思ったんですけど。つまり、ボトムアップにしろ、上からにしろ、結局同じじゃないかなと思ったんですけど

■ 丸山 :

 ものが循環することが同じということ?人の精神はだいぶ違うんじゃないかと思いますよ。だから、環境問題は心の問題でもあるわけですね。

■ 学生1 :

 さっき精神的な豊かさとおっしゃられたんですが、僕は精神的な豊かさも物質的な豊かさも共存するものだと思うんで。精神的に豊かである金持ちもいると思うんです。だから、精神的に見なおして我々の生活を変えようと言った時に、それは絶対に削減という方向には向かえないんじゃないかと思うんです。そういう実現性は少なくともない、そこをもう一度考え直す必要があるんじゃないかと思うのですが。

■ 丸山 :

 結論としてはあなたは、物質的な環境負荷を減らすところが見えてこないと意味がないんじゃないかということですね。そこに至るためにどういう民主主義的な手続きをとったらいいかという問題を新たに立てなきゃいかんということでしょ。論点の2ですよね。科学と政治・民主主義。ちょっと先取りして論点の2を読んじゃうと、「さまざまな価値の多様性をまとめる社会的メカニズムとして科学や民主主義があります。」ちょっとほんとかなというところもあるんですが・・・。「それらの限界はどこにあるのでしょうか。また、経済的価値観に代わって、世代間倫理や環境的正義は社会に受け入れられるのでしょうか。」という問題が立ってるわけですが、今の話に引き付けて言えば、世代間倫理や環境的正義を立てたとしても、物資的なレベルでの問題解決につながっていなければ意味がないということですね、そういう大きな問題を出したんじゃないかと思います。ちょっと鬼頭先生にお話をうかがいましょう。

■ 鬼頭 :

 あの、おっしゃることは分かるというか、つまり、精神的な豊かさが出てくるのは、精神的な豊かさを身につけたら、物質的な環境が良くなるって言ってるわけじゃないんですよ。今の物質的な諸問題を我々が認識して、それに対して我々の生活をどう変えていくか、あるいは、地域社会をどう変えていくか、というところにおいて、我々は精神的な豊かさを出しているんですね。だから、我々がいくら精神的に豊かであったって、途上国の問題とか、温暖化の問題だって、例えばモルジブのような国がなくなっちゃうとか、ヒマラヤかなんかで氷河が解けて、村落が危機に瀕しているとか、そういうことを我々がある程度認識しつつ、じゃあ、そういうものに対して我々がどうするかと考えなければだめですね。

 要するに、どうやってそういう認識をするかということと、認識して我々がいろいろ個人的にあるいは地域社会で行動するという時に、いったいどういうような形でやるかを考える時に、私としては上から50%削減でやりましょうというよりは、もう少し自発的に工夫をしながらやっていくという、あるいは我々が今までの価値観というものを転換して行くのが必要で、そういう形でしか、そういうことは可能ではないだろうということです。だから、精神的な豊かさを強調することは、それは必要十分条件にはならないわけで、我々が決定したり、生活を見なおす時にそういう視点がなければ、結果的に物質の削減とか言ったって、難しいことには変わりない。むしろ削減の方が重要だというのならば、それはもちろん、どういうふうに我々が認識して、例えば経済システムなどをどういうふうに我々が決めていくかということに結びつかなければ意味がないというのは、そうだと思います。

■ 学生1 :

 そこでボトムアップで、50%と言った時に、それが、どういうふうに悪いのかということが見えてこないんですが。さっき後藤先生がおっしゃったように、実際の問題をちょっとお聞きしたいです。

■ 後藤 :

 質問に答えることになるかわからないですけど、環境問題とは社会問題だと思うんですね。環境とは物質的な科学的な根拠であると、私は元々のバックグラウンドはそこですから常にそういうことは考えているんですけど、もし、具体的にやろうとしたら、どういうふうにやるかということですよね。

 ある汚染物質があってね、それによって100%死ぬという、これは完全な環境問題と言っていいですね。一人も何の被害もない物質が世の中にあるかというと、これも疑問でしょ。そうすると、何%までが死ぬことを許されるかとか、そういう話になるわけ。そうするとここで社会問題になってくるわけね。でこういう点は、これも授業等でお話しますが、なんか割り切る必要があると思うんですね。ですから、温暖化問題でしたらね、日本がコミットメントを発生したからってね、温暖化が防げるわけでもないですね、残念ながら。グローバルに対応しないと無理でありますんでね。やはりそういう場合には、日本は経済大国としてですね、国際的支援とかをしなければならない。

 社会問題であるというのは、常にif,thenであるんですね。経済学ははっきりした合理的学問ですから、定義してるんです。経済学における環境問題というのは他者への損害なんです

 ですから、例えばロビンソンクルーソーのように、あなたが離れ小島に住んでいるとします。あなたがどんな環境汚染をしようが、あるいはあなたがアパートメントの部屋でもいいですよ、どんなに汚くしようが、私はヘビースモーカーですから自分の研究室は年中煙が満ちてますが、これは環境問題とは言わないんですよ。

 だけどほんのちょっとでも、私の煙が他の人の健康を害する、これが環境問題。これは物質的な客観的な尺度で測れるもんじゃなくて、社会問題という基本事実から出発すべきだと思いますね。そうすると、鬼頭先生とか丸山先生がおっしゃった、社会的な権利、今我々の社会がどういうものをアクセプタブルな環境汚染とみなすか、それ以上はだめかと、そういう次元の話だと思いますね。ただ、昔と比べれば、はるかに我々が環境的にはいい社会に住んでいるというのは間違いないと思いますね。



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