論壇 セーフガード発動と日本の農業の将来像について

【文責:大竹史明、澤千恵、杉山昌広、松島徳彦(五十音順)】

1節.セーフガード発動と本稿の課題

 政府は、ネギ、生シイタケ、畳表(イグサ)を対象に緊急輸入制限措置(一般セーフガード:以下「セーフガード」)を暫定発動し、輸入の関税割当数量を上回る部分に高率の関税を課した。期限直前まで本発動を巡り中国との交渉が行われ、12月21日、本発動が見送られ、民間ベースの自主対応が取られることとなった。これを受けて中国政府も26日、自動車、携帯・自動車電話、空調機の日本製品3品目に暫定措置以来報復措置として課していた特別関税を撤回することを発表し、日中の貿易摩擦はひとまず回避された。

 セーフガードは、GATTとWTO協定に根拠を有しており、輸入急増による国内産業への重大な損害を防止することを目的とする。しかし、あくまでも貿易自由化を円滑に進めるための一時的な措置であるため、発動国は期間内に産業再建・合理化などの対策をとることが求められている。

 この問題の背景には中国から安価で高品質な農産物が輸入されるようになったことがある。世界貿易が拡大する中、今後益々増えるであろう安価な輸入農産品によって価格競争力の低い国内農産業は衰退することが予想されており、日本の農産業は対応が迫られている。今回のセーフガードの事例は、日本にとって農産物を対象とした始めての例であり、同様な状況が今後起こると想定される中、今後の農政と農業貿易を考える上で重要な事例であるといえよう。

 セーフガードは輸入品の増加によって生じる国内経済への打撃を緩和するための措置である。国内経済に与えられる打撃とは、今回の場合でいえば、ネギ等の生産業及び関連産業の収益が減少したことである。したがって、これらの打撃を小さくすることができれば輸入促進には何の問題もないという認識が根底に読み取れる。

 しかし、ネギ等の生産業や関連産業の収益以外に、失われているものはないのであろうか。食料自給率の低下や農業の有する環境保全機能の喪失など、目を向けるべき事実は他にも存在しているのではないだろうか。私たちは、今回のセーフガード発動をめぐる議論からこのような問いを抽出し、続く2節においては、グローバリゼーションの中でも国内農業を存続することの必要性を、特に環境的な側面から検討してみることを試みた。それを踏まえて3節では、国内農業の長期的なビジョンを描く上で必要であると考えるいくつかの視点を提示してみたい。

2節.国内農業の外部経済性を視野に

 「他の産業や消費者に負担を強いてまで競争力の低い日本の農業を保護する必要があるのだろうか」という声がよく聞かれる。確かに経済学的視点だけから見ると競争力のない農業を保護する必要はなく、市場メカニズムにまかせた方が良いことになる。貿易は基本的には効用の総和を増やし、社会に有益に作用するためである。

 しかし、これは貿易に伴う全ての利害が認識された状態で取引が行われた場合に限定した理論である。現実には、市場で取引されない汚染や公共財(経済学用語で「外部性」と言う)が存在しているため、この仮定は成立しない。特に農業に関しては、自然災害の緩和、環境保全等、農業生産に伴ってプラスの外部効果が生じる場合が多い。これらは、「多面的機能」或いは「公益的機能」と総称され、その重要性は国際的なコンセンサスとなっている。以下に詳しく多面的機能について見ていくことにする。

 農業の多面的機能には、洪水や土砂崩壊の防止、水資源涵養、大気や水の浄化、生態系保全、景観の保全等が挙げられている。自由貿易の加速により日本の農業が衰退した場合、これらの多面的機能が失われる可能性がある。例えば、生産コストが相対的に大きい中山間地域では耕作放棄が年々増えており、そのために土砂崩れが生じ美しい景観が失われている。また、国内だけでなく輸出国にも目を向けるべきである。発展途上国からの木材輸入が天然林消失をもたらしているのと同様に、安価な農産物の輸入は輸出国における環境悪化、多面的機能の喪失といった外部不経済を生じさせる可能性がある。バナナの例は広く認識されているが、全ての農産物について言えることである。

 以上のような農業全般に関する議論に加え、農作物の種類ごとの個別的な検討も必要である。例えば、今回セーフガードの対象となった生シイタケはビニルハウス内での「菌床栽培」による生産が増えているが、菌床栽培では、むしろ外部経済よりも外部不経済の側面が大きくなる。しかし、シイタケ栽培が水田経営農家の重要な収入源である場合も多く、この場合はシイタケ栽培が水田の多面的機能の発揮に間接的に影響していることになる。このように個別的に見ることは有効な対策を考える上で必要不可欠だろう。

 作物ごとに効果の大小は異なるものの、概して言えば、農業は公益的、多面的な恵みをもたらしている。しかし、上記のようにその効果は市場の外部におかれているため、完全な市場メカニズム下では効率的な供給が不可能である。農業活動の有する多面的機能を維持していくためには、なんらかの農業保護措置を検討する必要があるだろう。

3節.幅広い視野で農政ビジョンの検討が必要

 では、国際的に自由貿易がますます拡大していく中で、国内農業を持続するためにはどのような方法が考えられるだろうか。セーフガードは一時的な措置であり、その間に中長期的な対策を打ち立てることができなければ他産業や消費者の負担は徒労に終りかねない。以下では、今後日本の農業に必要だと考える幾つかの視点を提示したい。

 第一には、多くの指摘がなされているように、農業経営の効率化が求められよう。生産及び流通コストを削減し、国際競争力を高める必要がある。家族自作農による効率化に限界があれば、法人や生産組織などによる経営への移行を推奨することも重要だろう。

 農業の持つ様々な外部性を内部化することも一つの方法だろう。先に国産農産物の高価格、輸入農産物の低価格は外部性が反映されていないことによる可能性があることを指摘したが、だとすれば、「農業あるいは農作物の持つ外部性に関する情報を消費者に提示し、その情報を踏まえた上で消費者が選択して購入する」という形にすれば外部性を内部化できる。既に林業においては、環境に配慮した形で生産された木材に対してラベリングを行う「森林認証制度」が普及しつつある。それと同様に、外部環境にプラスの効果を与えている作物には、それを示すラベルを添付すれば、消費者が購入の際の判断基準として利用できるだろう。また、同時に、農業の多面的機能、例えば、田園風景の美しさや治水機能を、グリーンツーリズムなどを通して都市部の消費者に伝えていけば、購入の際の判断材料を提示することにもなる。

 しかし、日本の労働力が途上国に比べ圧倒的に高いことを考えると、上記のような策を講じたとしても価格競争には限界があり、農家が十分な所得を確保し農業を継続していくことは難しい。そこで考え出されるのが、公的資金による農家への直接所得保証である。繰り返し述べてきたように、多面的機能の創出は農業の重要な役割であるが、農家の所得には多面的機能の維持に対する代金は含まれていない。この代金を税金で賄い、農家の所得を補償することで農業自体を残せば、例え国際競争力は弱くても多面的機能は保持される。このような概念に基づくのが直接所得補償である。平成12年度から施行されている「中山間地域等直接支払制度」は、直接所得保証と類似の概念・手法を持っており、今後の効果が期待されている。その場しのぎの策で終わらぬよう、留意すべきことを忘れてはならない。

 セーフガード発動以来、発動はしたものの国産農産物の競争力を高めるべき具体的ビジョンが欠如しているといわれている。確かに効率化とコスト削減という観点のみから見れば、現行の政策で日本の農業を守ることは困難かもしれない。しかし、生産性の向上・効率化という従来型の枠組み以外にも、多面的機能の保持、情報提供による外部性の内部化といった点からも検討の余地があることを示した。農業と自然環境・社会環境との複雑な結びつきを考えれば、より幅広い視野で農政ビジョンを検討していく必要があるだろう。

今回の論考はメンバーの総意ではない。また、この議論の意図は完成された意見を提示することではなく、むしろ議論を促すことにある。

活動紹介

→総合ビジョン発信プロジェクトについて

ページの先頭に戻る