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ゼミ「『環境の世紀』演習編」



4月26日 鬼頭秀一


グループディスカッション

 今回は6つのグループに分かれ、ディスカッションが行われました。各グループで話し合われた内容、鬼頭先生による総括は以下のとおりです。

ゼミの風景

グループ1

テーマ:吉野川可動堰

 班の中では、講義の後半ではやや抽象的になっていたので、具体的な状況の中でどう意思決定をしていくのか、という部分に関心が集まっており、実際の事例に即して考えてみようということになった。そこで、授業でも触れられた吉野川の堰の問題について考えることになった。話し合ってみると、吉野川の問題についての知識があまり無かったので、鬼頭先生が回って来られた時に吉野川のことについてお聞きしてみた。すると、第十堰は江戸時代からのもので、老朽化しているが、逆に古いからこそ風景の1つとして、1種の文化財のように捉えられている側面もあることが分かった。

 また、洪水が多い所であるので、昔は洪水に強い藍を植え、特産地であったとい う住民と洪水の歴史的な経過も知った。 住民投票は徳島市だけで行われ、実際は流域単位で関係があることも教えていた だいた。 これらのことを踏まえて吉野川のあり方を考えた。 当初はどう決めるかを話し合い、様々な要素を比較して総合的に決めたらどうか という意見がよさそうだということになり、やってみたが、人命など比較評価し にくいものがあり、難しいことが分かった。 それで誰が決めるかという議論に移った。 これは関係者による会議が良いのでは、という意見がよさそうだということにな った。 しかし、責任の所在を明確にしなければ会議の意味、実効性が無く、会議では責 任の所在が曖昧になったり、結局行政が責任を持つということになって今までと 変わらないという問題が浮かび上がった。 それに加え、自然の声をどう反映させるのかという2つの問題が浮かび上がった。 1つめの問題については会議を話し合う場にして、その後にその会議での意見な どをきちんと踏まえて住民投票の形をとれば、会議参加者自体に責任が無くとも よいのではということになった。 その際、住民投票自体が法的拘束力をもち、価値あるものにしていくことが必要 だということになった。

鬼頭先生のコメント

【人命の価値】
洪水で人がなくなるということが実際にあるんですが、なぜそれがそうなのかと いうことを考える必要があると思います。昔は橋は流れるものだった。それが、 橋が流れないようにするために人命が失われる危険がでてきました。農業につい て、洪水で田畑がダメになってしまうことはあると思いますが、諫早の大氾濫の 翌年はのりが大豊量だったりということもあるわけです。経験的に、人が住んで は危ない地域というものがあるわけですね。そういう視点から、洪水で人が死ぬ ということを見る必要もあると思います。


グループ2

テーマ:自然と人間との関わり方

・先住民は自然とどうかかわっていたのか?自然のサイクルの中で生きていたのか、  あるいは環境破壊をしていたのか?

・バランス感覚が大事。管理は必要以上ではだめ。

・里山の自然は「道具的価値」では?「本質的価値」があるのか?
 →里山は生態系が豊かである。生態系に価値があるとすれば「本質的価値」になるのでは?

・環境倫理は日本では成り立つかもしれないが、発展途上国では有効か?生活のかかっている人たちがいるところではどうなのだろうか?(例えば、熱帯で森林を破壊しなければ生きていけない、など)

・管理と放置どっちがいいのだろうか?
 →それはローカルで決める問題

・多元主義的決定はできているのか?→まだこれから。決定する場所の確保が必要。科学論争より地域のビジョンで決定することが大事。

・地域住民の意見をもっと汲み取るべき。資本主義ではなくローカルでやっていく際に地域通貨が有効?

・非持続的な木の伐採ではなく、持続的な伐採をするべき。森林伐採後のケアもコストに入れれば、熱帯よりも日本などの方が循環でやっていけるのでは?

・ローカルで決める主体は、地域住民、専門家そして国。この3者が対等な立場で話し合えるコミニケーションの場の創出が大事。

鬼頭先生のコメント

【熱帯林】
熱帯林はよく入会として使われていたが、国有地となってしまったために、国が 開発をして、入会的な利用ができなくなってしまうということになります。もっ と、土地は誰のものかということを考える必要があると思います。


グループ3

住民投票について

・とりあえず賛成
 現状ではこれに勝る民主的な意思決定システムはない。ただし情報公開が問題となっているので、その解決が必要。
 情報伝達の主体…マスメディア<NGO、学校
 →中立性が問題とされるため。マスコミは信用できない。

・懐疑的
 将来世代の権利はどうするのか?住民が例えば公共事業がいいと言ったら開発されていいのか?(地域の自然環境にもし普遍的価値があったとしても、住民投票という普遍的価値を与えられたプロセスの結果次第では、破壊されるかもしれない。)


住民投票のために

・知識の共有
 NGOなどが主体となり客観的な情報(その存在自体議論の余地あり)を地元の人に伝えること
 ←客観的な情報を与えられたら、正しい判断が可能なのか?経済と環境を同じ尺度で比べられるのか?

・経験の共有
 判断の尺度は個々人がどう感じるか?ということ。客観的情報も大切だが、実際に現場に行って、その経験(経験としては同じだが、印象は人それぞれ=主観的)からその個々人に判断してもらう必要があるのでは。

鬼頭先生のコメント

【住民投票】
住民投票については環境社会学で研究されてきている。結果論と言うよりは、住 民投票の過程を重視していますね。その過程で、住民の意識がどう変わっていく のかなどですね。その点で、社会教育の意味はあると思いますね。情報について の共有が行われるようにしていくことに評価はできると思います。

【住民投票の範囲】
いろいろな立場の人の意見を聞くと、とめどもなくなってしまいます。河川に関 して言えば、流域が地域となるでしょうが、ある意味では、自然条件によって規 定されて地域の中で、地域作りの共同性を確立する必要がある思います。

【国土交通省】
国土交通省主導で、流域ネットワークをつくるといった今までにはない動きがで てきています。


鬼頭先生の最後の総括

【価値のとらえかた】
 価値に関しては、いろんな議論があります。どういう生物ならいいのか、などで す。生物多様性の保護というのは、個体主義というものとは違って、トータルな ものとしてとらえようとすると、人間の関与というの簡単ではないという感じが します。どうすればいいかというと、生態学で科学的にそれがどこまでぎりぎり のところまで言えるのか、ローカルな価値を客観的な指標でどの程度言えるのか ということと、あとはもうひとつは今すんでいる人がどう考えているのかという 3つのレベルをどういうかたちでまとめるかというところが論点になってくると 思います。議論の場も問題になるでしょう。究極的にどういうかたちであるとは 決められないし、私はきょう多元主義的な決定ということを提示したが、実際ど ういうかたちでできるのかというものがあるわけではない。しかし、実際吉野川 で活動している人たちを見ると、やっていることをどういうことを想定している のかと言うと、多元主義的な考えが根底にあると思います。国土交通省の河川局 がやっていることもいろいろです。所長さんがどういう所長さんかでも全然違い ます。川によって、しっかりやっているところもあるし、強権的なところもあり ます。役所が主導ではあるけれど、ある意味では一歩下がった感じでやっている ところもあるわけです。逆に、そうじゃないところはNPOが中心になっている ところもあるし、場合によっては行政が中心になっていることもあります。意志 決定の場が、どういうかたちになるかということを考えていくことになるんじゃ ないかなと思います。私の役割としては、どの場合にも役に立つような論点を提 示することにあると思います。

【裁判】
 裁判というのもひとつあります。自然の権利訴訟で私が一番評価しているところ は、今まで開発に関してどうするかを決定する場がないからそれをする場として 裁判の役割を感じています。最近は自然に関しては、現地検証をよくやっていま す。自然の声というのは実際にアマミノクロウサギがくるわけではなくて、思い 入れを持ってそこに来る人たちがどんな関係を持って生活をしているかというこ とが重要なわけで、それを説得力を持つかたちで言えば、議論で有用になると思 います。裁判は実際の合意形成の場ではないわけですが。

【合意のありかたーどれだけの人が合意すればいいのか】
 また論点として、どれだけの人が合意すればいいのかということがあります。こ れは簡単な問題ではありません。たとえば、全員が合意すると言うことはありえ ないわけです。また、ある意味では1割くらいの人が変われば地域は変わるわけ です。それが他の人にとっていいというか悪いという判断は難しいわけです。行 政やNPOの人が自分たちにとっていいようにやるかというと決してそういうわ けではないと思いますから、そのあたりをうまくまとめて合意形成できる場をつ くる必要があると思います。最終的には、それぞれの現場で考えるしかないわけ です。当事者がどういうひとかというと全然違うわけですから、対立が激しい場 合には合意形成はすごく難しいでしょうし、わりと和気藹々とできるところでは、 合意形成がうまくいきやすいでしょうね。自然再生事業というものは地域づくり の予算源になるわけですね。それを成功されるためには、今述べたようなことを ある程度、意志決定のあり方とかどの程度地域を再生させるかという地域的なこ とを考えていかなければいけないでしょう。声があがっているところもまだ未知 数です。まだばらばらのところに予算をかけても、かえってお金が絡んでややこ しいということもありえるのではないかと思います。

【地域を客観的にみることの重要性】
 都市と地方の話です。 田舎に帰って田舎がすばらしいと思ったらおしまいだなんて話があります。現実 に自然保護運動をやっている人をみると、都会にしばらくでて帰ってきて、住み 着いた人が多いわけです。ぼくはそれもよそものの一種だと思います。あとは、 自分の地域を再認識ということもあります。おしまいかもしれないけれども、逆 に言うと、外から地域を客観的に見ることができるというのも重要だと思います。 実際、そこに住み続けていると見えないわけですよね。そういうふうに、地域が 決めるべきだっていう話になったら、実際開発が進んでいくでしょうね。かなり 多くの人が気づいていないからです。すんでいる人は徐々に変わっているから、 連続性の中で気づかないということがあります。地域を認識するためには何が必 要かというと、地域に住んでいればいいわけではなく、外から来てこれはすばら しいという人、専門家がいることが大事なわけです。そういう外からの意見があ ってこそ自分たちの認識していくのであって、何にもなければ、地域はまったく 認識できないわけです。社会というのは、そこで固定的で閉鎖的だといい結果を もたらすとは限らない。いまいっぽ客観的に見直しながら、地域のことを考えて いく必要があると思います。

【将来世代の考え方】
 未来世代のことを考えられるかという議論があって、たしかに考えられないとい う意見があるでしょう。ただ、自分たちが自然とか地域というものを見直して、 子どもとか孫とかを見たときにかつてどういうような前の世代から受け継いでい ったというものをもう一度再認識しながら、未来世代に対する責任というものが でてくるわけで、歴史認識がないとだめだと思います。歴史認識があるところで は、利便性があればいいというだけではなく、こどもたちなど将来世代のことを 考えた意志決定ができると思います。

【放置と管理】
 放置する方がいいのか管理する方がいいのかということは、たとえば雑木林など は難しいと思います。府中に、「浅間山(せんげんやま)」という公園がありま す。里山の公園というか雑木林という公園です。ムサシノキスゲとか春になると 咲いて出てきます。30代から40代の青年会議所の人なんかを聞いたんですが、浅 間山の公園に行くと、ぼくの浅間山ではないと感じる言うんですね。僕の浅間山 は管理されていたのではなくうっそうとしていた、と。そのあと雑木林は、ムサ シノキスゲが咲くものだというのなこういうふうにあるべきだというものになっ てしまったために、彼の感じる浅間山ではなくなってしまったわけですね。人に よっては、いまの浅間山はムサシノキスゲのためにあるような山ですよね、とい う人もいます。また、ひょっとしたら、江戸時代あたりにくらべると切り開きす ぎという議論もあります。どうしてかといういうと、いまの人たちが里山と感じ ているのは、昭和のはじめごろのものなんですよね。歴史を見ると、江戸時代半 ばに全国はげ山になってしまって、それから植林をはじめて、昭和のはじめごろ まで続けて、緑が回復してきたわけです。ところが、戦時供用とうことで、木材 を軍に供給すると言うことをはじめたわけです。めちゃくちゃになってしまった ところがいっぱいあります。それまでは、入会で管理されていたのに、切り開き すぎで、いまだに回復していないところがある。そのあたりのことを考えると、 昭和のはじめごろの里山をイメージすると、江戸時代に比べて切り開きすぎとい う議論もあるわけです。ですから、普遍的な価値というものは難しいでしょうね。 生態学的な視点、環境史を鑑みた上で、いまいる人たちで、普遍的な合意形成を するということは、不可能ではないと思いますが、世代によってあまりにも違う から、あんまり自分にとってこうだと言い出すとと難しいかなという気がします。 ひとつは、保全生態学のような客観的な指標があれば、それをもとに意志決定で きるかもいしれません。科学的な価値も非常に重要になると思います。といって もなかなか難しい問題だと思います。

【先住民のとらえかた】
 最後に先住民ついてです。先住民については非常に微妙です。先住民はおおむね 環境保護的だと考えがちですが、われわれが考えている以上に近代化しているわ けで生活形態が違ってきてしまうわけですね。先住民の人がやっているから伝統 的だということは一概には言えないですね。時代によって現代に近ければいいか というとそうではないです。たとえば、植民地であったときに、本国ではズーの しっぽが珍重されたときに、そのときは、肉ではなくてしっぽだけとっていたわ けです。食べる以上にとっていたわけですね。最終的には、もちろん先住民にも 権利があるわけですが、先住民にも、先住民の人がいるからそれでいいかという とそういうことにはならないわけです。そこは、感性などをもって判断しなけれ ばいけないと思います。あるチンパンジーの保護をアフリカでやっている人たち が、そこの精霊の森にチンパンジーがいて、精霊の森という認識を土地の人たち が持っているとすると、うまくその土地の人の認識と適応しながらチンパンジー を保護しようとするプロジェクトがあります。それに関わる西洋の人はその感覚 がよくわからなくて、僕ら日本人のほうが、鎮守の森といった意識があって、い ままでの西洋的なものではなくて、日本人が意外と貢献するところはあるんじゃ ないかと思います。最終的には、現場ー地域の人ーが決定者なのだけれども、よ そものである専門家やNGOが中に入っていく意味はあると思います。たとえば、 ヌーにしてもいなくなってしまえば、先住民の持つ文化はなくなってしまうけれ ど、どれだけヌーをとれば、湿地が傷つけられてしまうかというようなことはわ からないわけです。先住民のひとたちは、客観的な知識を持ち得ないわけですね。 よそものである専門家が入って、客観的な知識を提供する意味があると思います。 専門的な知識だけで決められるわけではないけれども、専門的な知識をふまえた うえで、地元の人たちが意志決定するシステムをつくる必要があると思います。

 今日は、本質的な問題がいくつもでてきてとても有意義でした。



ゼミの後、鬼頭先生と一緒に食事に行きました。
「環境にかかわる意思決定はいかにあるべきか〜普遍性と多元性の狭間で〜」
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