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環境の世紀IX-最終回ディスカッション 
日本において環境問題は何が問題なのか

7月16日 ファシリテーター:廣野喜幸
パネリスト:安井至丸山真人林衛染野憲治

廣野

「環境の世紀IXでは、環境問題におけるトレードオフがテーマだったと思います。 始めは、駒場にゴミ焼却場を作るというシュミレーションをしてどのような利害対立が生じるかの討論を予定していたのですが、仮定に矛盾が生じ、急遽題を変更しました。

さて、日本において環境問題は何が問題なのか、といった時に、小宮山先生が環境問題は実践の時代に入ったとおっしゃっていました。 実践の時代というと、私の学生時代では自然保護運動でした。いかに環境を勝ち取るかというものでした。現代は、そうではなくて、環境問題が多様化し、温暖化問題もあれば、酸性雨問題もある、リサイクル問題もあれば、ゴミ問題もある。取り組む人の意見も様々になってきました。 また、二酸化炭素を下げると、NOXが増えるなど、環境問題の中にもトレードオフがあることがわかってきた。 日本において環境問題に携わる人間がばらばらに運動するのではなく総合的に取り組むことを考えた時に、どういう戦略がありうるのか。問題の特徴を捉え、どのようなアプローチで臨めば解決できるのか。どこから取り組んでいくか、一緒になって考えなければならない段階にきたと思うのですね。
段取りとしては、そんなテーマ自体あほらしいというコメントも含め、先生方の意見を聞きたいと思います。私も各先生の言ってらっしゃることが必ずしも調和していないと思います。ここにいらっしゃる先生方で議論をした後、学生のみなさんも含め質問を受けて全体討論をしたいと思います。
まずは、全講義を聴いた丸山先生から、お話いただきましょう。」



丸山

全13回の講義を通して


全体の印象を語りますと、それぞれの先生が、関心は非常にはっきりしているんです。例えば生態的な自然を守ろうという関心の強い人、制度をしっかり作って、市場経済を活性させるためにも、環境に負荷の少ないビジネスをおこしていけばいいのではないかという人と。それぞれ立場が違うので大事に思うものがちがってくる。 問題の立て方によって、解決策も当然異なってくるわけですね。トレードオフというのは、価値観、問題意識の違う人々が、解決に向かって動いた時に、ぶつかりあうことを象徴した言葉として位置付けられていると思います。しかし、みなさんが講義を聴いてきて、トレードオフというけれど、必ずしもAかBかという単純な対立を見せているわけではなく、重なり合い、補っているような関係もあることに気づかれたのではないでしょうか。


丸山先生の視点

今日私の提示する話題は、具体的な一つ一つの事象を取り上げるのではなくて、環境容量:エコロジカルフットプリントの考え方を提示したいと思います。つまり、私たちが経済活動によって、どれだけ環境負荷をかけているか、生態系にどれだけ足跡を残しているか、それを定量的に測定できる手法が開発されています。 日本は、その環境容量を越えてしまっている。2倍以上です。 地球全体でも、1,3倍にあたる環境負荷を地球に与えていることが明らかになっています。 この議論で、排出されるものの主なものは二酸化炭素だ、ということに注目すると、議論自体が大げさだと。二酸化炭素が出て何が悪い、というように問題は問題でなくなってしまう。 しかし、エコロジカルフットプリントという話は、単に二酸化炭素が出てるから悪いといっているのではなくて、二酸化炭素を排出するプロセスに付随してさまざまな廃棄物が出ている。産業社会の歪を語っているのではないか。住先生も、二酸化炭素問題だけをとったら、温暖化がいいことなのか悪いことなのかという結論は出ないと思うが、二酸化炭素と一緒に発生する廃棄物も問題とすると、二酸化炭素削減に実践的な意義がでてくるといっていました。 大きな視点で見ていきたいと思います。

日本における環境問題というのは、環境容量を超える環境負荷に間違いないと思います。 そうだとすると、日本が果たすべきことというのは、経済を小さくしないといけないと思う。経済を小さくしながら、生活の質を 私自身の結論としては、 物をたくさん所有して満足する生き方から、 少ない消費で 自発的な行動をする自由を手にすることに喜びを感じる生き方に転換する。 お説教しても仕方ないですから、自分自身が実践して周りに見せていくことでいくことで、「あわれなヤツだ」と思われるか、「これからの時代こいつみたいな生き方の方がいいのかもしれない」と思われるか、それはこれからの私自身の生き方にかかわるのですけれども。問題解決、一人一人何ができるかと考えてみると、自分自身の生き方をみてもらうしかないのではないかということです。


廣野

二酸化炭素は環境問題ではなく、生き方を問うているのであって生き方の転換が必要だ、とおっしゃっいました。 講義の日程順にいきましょう。安井先生お願い致します。


安井先生の視点


今日の命題であります「何が問題なのか。」環境問題においては、問題を問題にしないことが問題。問題にしなくていいものが問題になっているのが、今の日本の問題である。 昔は環境問題は運動であって、生存のために取り組む性質をもっていました。 日本の環境問題はそこから始まっています。 しかし今生存している環境と言うのは、過去最良です。少なくとも10年前よりはよい。一番悪かったのは30年前というのは、もうこれは明らかですね。 環境問題というと健康問題である、という見方が少なくともメディアの特質もあって一般的になっているのではないかと思います。 しかし、実際問題、環境からどのくらいリスクを受けていてどのくらい命すり減らしているのか、本当に「命」に着目するとほとんどリスクはないんですね。 平均的に(私が出したので責任はもてないのですが)ダイオキシンなら平均寿命は1.2日すり減らすだけというデータもあります。

平均寿命は、現在女性が世界一。環境のよさを反映しているのかは、微妙だが。 今は、ミクロレベルでは、健康を気にする人もいるが、マクロでは、生き死にの問題にはならない。 日本における問題は、人間なんで死ぬのが嫌なのか、という問題ではないかと思う。 そもそも人間何のために生きているのかというのが環境問題であるという話になってしまう。 それでは話にならないので、 先進国としての日本は何を考えればいいのか、というところに視点に移そう。 途上国の人たちがいい生活したいなと思ってくる。 途上国が先進国のような生活したらどうなるのか。さっきの話のように地球の環境容量が大きな問題になってくる。 ということは、先進国は、途上国にとって見本になりうるような経済を本当は実現するべきなんだろうな。それが本来問題にすべき環境問題。 最近トータルリスクミニマムという考え方がある。 現世代はまあまあ快適に過ごしているが、将来世代の資産を食いつぶしていることは事実。 日本だけではなく、地球全体でも資産を減少させている。 生物は何故生きているのか。過去と未来をつなぐためにいきている、それがわれわれの役割だとしたら、 未来に残すものをなくしているわれわれの活動は、生物としておかしいのではないか。 トータルリスクミニマムというのは、何かというと、時間としては大体500年、空間は世界を積分してリスクを最小化しようというもの。 今日本などという今だけで積分していてはいけない。 工学家には、最適化がおそらく究極的な命題のようなもの。 未来も見通した最適な積分をしていく中で、人間何が問題か幸せとは何か、を議論することが本来の問題だと思っています。 今、日本において、そのようなことが環境問題だと認識されていないことが、問題である。


林先生の視点


世代によって環境問題の捉え方も違うんだなあと思いました。 環境問題は、チャレンジングな課題ではないか、ポジティブな問題だと捉えています。

地震が環境問題というのは、地震が起こる環境で住んでいる状況は避けられない。地震に強い環境を社会にどう取り入れていくか、と言う意味で環境問題だということです。

講義の中では、パターナリズム=誰かにお任せと言うのが問題ではないか、ということも言いました。生き方の転換と言う話がありましたが、トレードオフに陥らない科学技術を用いて、禁欲的ではなく、より贅沢な生き方をしようということで解決できるのではないかと思います。また環境問題はもっと立体的に考えていかなければなりません。立体的に考える、という例を一つ挙げます。ユニバーサルリレーション作り。また人間力。科学技術そのものを受け入れるのではなく、人間活動のプラスの働きを活用していく。安井先生、丸山先生がおっしゃったことと、同じ別の表現かもしれませんが。

センセーショナルな報道の意義

センセーショナルなことが時に重要となることがあります。これは、ニューサイエンティストというイギリスの科学雑誌から引用してきました。3本の記事からの特集なんですね。1本目は遺伝子組み替え作物。遺伝子作物は世界の飢餓を救えるのか。作っている人は可能性がある。本当にそうか。国連のアナン事務総長の言葉を借りますと、「食料が足りないわけではない。貧困の拡大で食糧を得られないのが問題。」ということです。安全性だけでは評価できない。この特集は結果だけではなく論争を紹介していることに大きな意義があると思います。トウモロコシの組換え遺伝子の論争。環境にどんな負荷を与えるか。もう一つは、未来の可能性を報じている。ヨーグルトに入っているバクテリアにより、遺伝子組換えを食べてもこれを食べることで健康でいられると言う。SFのようですが、5年10年後は日本でもありうることを描き出しているわけです。これらは科学者、一般の人も関心を持っています。

ユニバーサルリレーションの例

震災も環境問題の一つであってユニバーサルデザインしてしまおうと。どのようなユニバーサルリレーションが考えられるかお話しましょう。震災が起こると、この写真のように家具が倒れてきてガラスの破片がとぶ。怪我をして病院にいくと多くの負傷者がいて、場合によっては自分が手当てを受けることが、後回しにされた他の人の命とひきかえになることさえあるのです。上質な材木がうまく使われず、杉は花粉を飛ばしている。一方で腕のいい大工も絶滅寸前だという。もしこの状況をうまく解決すれば、そんなにコストをかけなくても、いいうちに住めて、腕のいい大工が活躍できることができるのではにか。これを地震対策だけではできないだろうと思います。複数の問題を同時に解決する、ユニバーサルデザインというものがありうるのだということです。

これはパイプEVといってパイプの技術をつかった電気自動車です。例えば、これが商店街の足になったり、地域によってカスタマイズできる。木製が得意なら木製、布製品が得意なら布でデザインできる。狭い道でもすいすいいける。これはもともと、本田、トヨタの技術者が集まって電気自動車研究会の中で開発した。電気自動車というのは、高いし、技術が高度だと、地元で直せないので、地元の貢献にならない。しかしこれは、地域で講習を受けた人が組み立て、カスタマイズできるので地元の産業貢献にもなる。自分の好きな車でお金を快適な暮らしを選択できるというのはある意味とても贅沢なことかもしれませんね。これは環境省にも認められ地域の中で活用していこうという動きがあります。地場産業、商店街、観光、交通といった複数の課題を人・モノのネットワークで解決していくユニバーサルリレーションをとりあげてみました。

エネルギーの未来

原油価格が将来どうなるかということですが、様々な見積もりがありますが、今世紀半ばには頭打ちになってくると予想されています。しかし需要は途上国中心に上がっていくので、原油の値段はどんどん上がるといいます。すると原油抜きで産業は発展していかなればならない状況が生まれます。原子力も同じです。抱える数多くの問題のため、原子力ぬきでやらなければならない。天然ガスはピークがもう少し後ですからつなぎとしては有効かもしれませんが。石炭はまだあるけれど、これは未来にとっておきたいですね。そうなってくると、先進国、特に日本は石油依存のライフスタイルの転換しなければいけない。先進国が見本になるような経済のあり方を模索していかなければならないということですね。日本の森林面積が約65%と高いので、仮に一年間に成長する分を全て発電に回せば、40%をまかなえるというデータもあります。仮に、原子力がきかなくなっても、やっていけることになるかもしれません。


廣野

「環境問題を立体的に捉えるというのは、大事なことで、トレードオフという軸を入れれば捉えやすくなるかなと思います。 染野さんの紹介された「スローイズビューティフル」を買って読みました。安井先生が生き物が過去と未来をつなぐと言ったが、生物は今を生きるんだという視点などを持っていらっしゃるのではないか。安井先生とどこらへんが違うのかということを踏まえながらお願いできますか。」


染野先生の視点


「私の仕事は哲学的ではなく実務的なので、目の前にある問題をやっつけていくというのがテーマでして、深く思想することはないんですね。環境問題を考えるには安井先生の言葉はよくわかる。一つは時間の問題。もし、われわれの世代で考えるなら、命に関わることではないし、ごみ焼却場もまだ大丈夫。しかし、自分達の子供の世代、あるいは地球全体で考えていくとなると、廃棄物とか温暖化など時間の広がりを考えた問題が生じてくる。もう一つは水平的な問題があるのではないかなと。日本が勝手にやると他の国にしわ寄せが行く。食料の足りない国が出てくる。先に発展した国がエネルギーを使ってしまう。そういう問題が環境問題、日本の問題と考えていました。全体的な構造。辻先生(スローイズビューティフルの著者)の考え方はよくわかる。後世代というよりは今生きるときに人とのつながりから、社会が築かれている。どれだけ環境負荷を与えているかは全体のものは定量的にはわかってない。しかし自分のやりたいようにやる。個別に見ればそれはあまり負荷を与えてない。シナリオB▼ みたいに技術を軽視するとよくない。私はあまり矛盾を感じてない。あえて役人っぽいことをいいますと、別の観点。環境省、役所でやる環境問題は何か。やはり法律に基づく物。法律に基づく環境問題とは何か、というと、人の生き死ににかかわる物である。プライオリティーが高い。公害、足尾銅山、四大公害病が最重要ではないかと。また同時に自然保護は広い意味の環境問題。これは地球規模の問題。レクリエーションという観点。それが環境庁の原点。将来的にどうか、生物多様性を残せないとどうなるか、それが最近の環境問題。公害から環境へ、というのは、こういう過程ではないだろうか。例外的にマスコミが騒げば動かないといけなくなりますが。ダイオキシンなどはその例です。環境問題は、生き死にではないと、個人的には思う。費用対効果をゆっくり考えないといけないと思う。」


廣野

「ディスカッションに移りたいと思います。 先ほど時間の都合上私が打ち切ってしまった林さんの「演習問題」を提示していただき、それに対する安井先生の解という形で始めましょう。」



「安井先生の授業を元に環境三四郎がまとめたものからとったので、正確ではないかもしれません。私が疑問に思ったことをあげます。“これまでにダイオキシンで死んだ人は世界で4人。いずれも合成中のこと。普通に死んだ人はいない。”とありますが、これは急性毒性でなくなった。慢性毒性を問題にしているのではないかなと思います。」


安井

「ダイオキシンの毒性は急性毒性と、慢性毒性(発ガン性)、催奇形性(認められてはいない)、環境ホルモン性。その4つ。寝台人は急性毒性。ダイオキシンで死ぬのは難しい。例えば魚が汚染されていても100年分食べても死ねないかもしれない。ダイオキシンの発ガンリスクは、アメリカのEPAだけが異様に高い評価をしているが、他はそれほど高くない。平均的にダイオ キシンなら平均寿命は1.2日すり減らすだけというデータもあります(産総研、蒲生氏による)。環境ホルモン性は、発生時に一番問題。母体中のダイオキシン濃度は、母乳濃度。母乳のダイオキシン濃度は、70年代が一番高かったことがわかっている。焼却炉ではなく、昔流したPCBによるもの。一番低容量で出る。発ガンなんかは目じゃないんですね。アフロドクシンに比べたらたいしたことはない。マクロ的に見たら問題はないということ。今は70年代の半分以下に落ちている。30台くらいの人が一番被害を受けている。その被害というのも、発ガン性ではなく、男性ホルモンを阻害する女性化が問題だ。」


丸山

「確認をしたいのですが、所沢のゴミの野焼き、不法に焼却をした周辺の住民が不調を訴えたとか、杉並の皮膚病など声があがるのだけれど、こういう現象はダイオキシンの問題とは関係ないのか、つながっているのか。」


安井

「実は結構深刻な問題がある。所沢で住民が不調を訴えるのは、煙の成分の中に身体に悪い成分があるからです。燻製は毒物たる物があるから腐らない。煙は人間にとって毒。害のあるが、それがダイオキシンかって言うのは別の議論。赤ちゃんの死亡率が増加したって言うのは、両方ともちゃんとした根拠が言うのはない。埼玉県吉田町などの小さな町で家庭用の簡易型の焼却炉を配った所がある。ちょっとドキっとするのは、ある4年間で赤ちゃんが4人死んでる。しかし次の4年間では0になっている。統計的に見たらたいしたことない。唯一人間に影響を与えたかもしれないのが、カネミ油症、母体濃度が高かったのが問題。今回のダイオキシン問題に 杉並はダイオキシンではない。東京都の評価結果は原因は硫化水素でした。プラスチックを圧縮して減量しているのですが、何がでてくるかというと、中身による。カビキラーとか、別の物が混じって変な物が出ることはある。なんとも言いがたいのですが、ダイオキシンは関係ない。」



「70年代のデータがたまたま高い人を取ったという可能性はないんですか。」


安井

「PCBという除草剤に含まれていた不純物のダイオキシンが1970年代が最も高かったのは科学的に明らか。トータル量は焼却炉の評価が過小評価かもしれないが一般の人が吸っていたのもどうやら事実。」



「普通に死んだ人がいないと言うのは、難しい。一番いいのが人体実験。慢性ダイオキシンで死ぬ人はガンになって死ぬ。ガンで死んだ人がダイオキシン由来かどうかなんてわからないわけですね。」


安井

「それもデータがある。」



「また、テレビ朝日による、ダイオキシンのセンセーショナルな報道は評価が分かれるところだと思いますが、私は意味があったと思います。」


染野

「循環の仕事する前には、ダイオキシンやっていました。科学者ではないけど。ダイオキシンの問題は非常にセンシティブだと私の聞いた限りで判断しています。何が問題か、人が死ぬか、たばこすったってダイオキシンが出るわけですし、遺体やいたってダイオキシンがでる。本当にリスクが高い物が他にあるのではないか。あるときセンセーショナルに恐さを報道すると、 特に弱者、母乳だとか赤ちゃんだとかに 環境問題の問題は科学的に理解せずにセンセーショナルに扱い、恐怖心をあおってやらなくていいことにお金をかけることが問題。一番悩むのは科学的に正しいのか正しくないのかが これであろう、というものを恐る恐るながら判断して、行政は対策打っていかなければいけませんが。 そういう意味ではテレビ朝日の報道は全く評価できない。本当に実証持った、科学的に何がわかって何がわかっていなくて、それはどれだけの危険があるのかを提示して報道すべきであり、みなさんが見る番組であのような報道をするのは非常に危険なことだと思う。 行政の出した報告で、そこを取り上げてもどうしようもないものを、人が死んだ例があるとか危険だとかいう部分だけをとりあげることがある。 朝日新聞がこういうことだが本当か、と環境省に問い合わせが来ることがある。「環境省の報告はこうこうであるからこれは違います」というと、「朝日新聞が書いてあるんだから、おまえら嘘だろう」と返ってくるんですね。朝日新聞は環境省の報告書みて書いているのに、一般の人は、朝日新聞が正しいことを言っているのであって、環境省が隠している、と思うのですね。 もう少し学び落ち着いて判断しなければいけないなと思います。」



「私の結論のひとつに、「パターナリズムのせいにするのはやめよう」というのがあります。マスコミが絶対だというのはやめようということです。市民にもっと知識があった方がいいというのは一面の真理です。しかし、センセーショナルな報道は世界中で起こっている。所沢では実際に健康被害が起こっていて、もしかしたらダイオキシンのせいではないかもしれないけれども、たくさんの廃棄物を置いていって、大量に燃やしているのは事実。その現状に注目して、このままでいいのかと疑うのは、意義あると思う。マスコミが取り上げたときにどういう風に対処するかを、役所の方が事前に知っておく必要もあります。行政、市民、マスコミも共有して理解しておく。お互いが無知のせいにするべきではない。」


染野

「これはどこまでいっても平行線。無知のせいにする気もない。やはり、センセーショナルにあおることで、他の重要な部分を隠しているならば問題だといいたい。ダイオキシンの問題をセンセーショナルに取り上げたことでいいことはあると思いますが、 ゆっくり考えたほうがいい。限られた税金と人的資源で仕事しているわけですから。」


廣野

「コミュニケーションの問題も環境問題を立体的に見る例だと思います。(笑) フロアからもいい質問がいくつかきています。藤井君。河野君。」


受講生からの質問

「環境問題は何が問題か。今はダイオキシンだけしかやってないので、このままだと日本における問題はダイオキシンということになりますが・・・。」



「ダイオキシンについて議論しているのはいいと思います。質問したいのはアプローチの仕方。僕達のように知識をあまり持たない、と仮定したときにどうすればいいか?環境問題にはプライオリティーがあると考えたときに、ダイオキシンはプライオリティーが高くない。では何をやるべきか。専門にやっていないとなかなかわかりにくい。一つ目は、本質を見極めるときに一般の人はどうすればいいのか。二つ目は情報を吟味する手段は何なのか。三つ目として本質でないとわかったけれど、目の前にその問題で苦しんでいる人がいたときにどうするか。時と場合によるといえばそれまでなのですが。4つ目は僕から見てボランティア活動はプライオリティーが高いことをしているようには見えない。そういう場合に、例えば「あ、これはやらなくてもいいのにやってる」という活動を見つけたときにどう収束していけば解決に向くのか。


廣野

「時間もないので、全てには答えられないと思います。彼らの質問の精神として、立体的に見えたところで、どうやって取り組んでいけばいいのか。たとえば、生物多様性は安井先生のいう人間の生き死にには直接関係ないので、最後に回していいのか。例えば、死にはしないけど、環境ホルモンによる次世代の出生率の低下。生き死にでも、自分のクオリティライフの低下でもない。環境問題とは、受ける「害」が様々にあるわけですよね。丸山先生の言うように、二酸化炭素が温暖化するかわからないけれど私たちの生活の転換を図るのに重要、といった視点もあるわけですよね。いろいろな評価軸があると思うのですが、個々の先生が違うのを踏まえずにダイオキシンの問題の議論をしていると難しい。学生からの質問を受けて、先生方、そのへんをお願いします。」


丸山

「世の中に存在する物はそれなりに価値がある。ヘーゲルのような考え方が最近ぴったりくるようになったのですが。笑。科学をするっていう限界を知ったほうがいいと思うんです。専門を突き詰めても常識に落ち着く。自然科学の分野ではそうではないと言われるかもしれないが、少なくとも経済学の分野では結論は常識的なところに落ち着くことがおおい。なぜそうなるかというと、例えばダイオキシンは、悪者かいい物かをつきとめることが環境問題をはっきりさせることではなくて、ダイオキシンが出るという現象、物を燃やす意味がどういうことなのかを考えることが重要なのではないか。と。そもそも燃やすとなんで毒になる物質が入っているのか。私たちの燃やすことで成り立ってきた文化を考え直すところまで行くと思います。二酸化炭素もそうだが、二酸化炭素を排出すること自体、産業的な文明の結果。産業的な文明それ自体を問い直すと言う方向に向かにしてもそうなんだけど。そんなことを考えて環境倫理や環境哲学とかをやろうとすると、対処療法的な、目の前にある問題には答えないで人の生き方ばかり問いをたててるんじゃないの、と言われる気がします。気がするんだけれども、でも、日常生活の中で、何が問題かどこが問題かを考えるとしたら、科学者のだしてくる原因物質をしって、なるほどそうか、だけれどもなぜそういう問題がでてくるんだろう、こういう問題がでてくる文明はどういう性質のものなんだろう、と考えることがおそらく私たち一人一人にできることなのであって、 自分で新しいライフスタイルを作れるかどうか、それを考えることができるかどうかが本当は大切なんだと思います。 林さんは若いからたぶんそれでわくわくするんだ、わくわくしながら新しいライフスタイルを考えていくんだろうと思います。
何が問題かというと、私はやはり生き方の問題が一番の問題だと思います。身近な例ですが、環境問題の中で、生き死にがないから、いい環境という中に落とし穴がある。空調がきいていますが、寒い、と感じる人いると思うんです。ここまでテクノロジーが発達しても、一つの空間に押し込むのは、機械的な環境調節をしなければならない。それは我々の生理に合わない。生理にあわせようと思ったら、巨大なシステム自体を変えざるをえない。その問題を考えることが日本の環境問題の本質だと考えます。」


廣野

「循環型の社会に近い気がするのですが、違う所もあると思いますので、次は染野さんにお願いしましょう。」


染野

「私個人は環境保護派でもなんでもないんですが。循環型社会では、何が問題か。暮らし方、ビジネス、文化、どうやって生きていくか。法律の中でいう循環型社会は廃棄物、リサイクルの問題にに特化している。温暖化、ゴミ、水質、どれが問題だと決めることはできない。地域の中でその人にとってこれが大事なんだといったら、それは変わらないでしょう。ただ、大きく言えば問題はどれも社会の暮らし方につながる。そのなかで生態系はどうするかっていうことをやる。何を知ったらよいか、という質問に対しては、情報はホームページに出てるのではないかと。メディアを一つで見るのではなく、読みこなしていく。本当に知りたいのであれば、情報を集めていくのが重要だと思います。ただ、環境オタクになっても僕はあまり友達として付き合いたくない。笑。恋愛も大事、お金も大事。バランスを取る。
目の前にある問題は難しい。個人的に言えば水俣病の補償問題の解決ということをやった。コミニケーションとること自体も最初は断られた。徐々に話ができるようになり、唯一得られたのがコミュニケーションをとっていくことですかね。」



「どうやって本質にたどり着くか。安井先生と染野先生と対立したように見えるが、実は対立していなくて、細かい所で論争になっていただけで、大きな問題は共有されているんだと思うんですね。大量の廃棄物、健康被害。しかもそこで使っていない物。センセーショナルな状態が存在した。それが気づかれて、報道につながったんだと思うんです。よくよく考えればわかってきたが、そういうものが放置されていた。それに気づくのが大事。先ほどセンセーショナルな報道によって隠れてしまう問題もあるといいました。そのとおりだと思います。他にお金の使い道があるだろうと。気づかれてない問題が取り上げられて、センセーショナルになったら、どうしてもお金の使い方は極端になると思います。そこで、あらかじめ問題ないかアンテナをはっておいて、早い段階から対策を取るのが重要。科学ジャーナリズムは予見性をもって、解決策を提示する。そうすれば質の高い議論ができる。」


廣野     

「安井先生、丸山先生。6限も形式はこれで行こうと思います。」


安井

「今の日本の環境はマクロで見ると、生き死にの問題は終わった。健康の問題でいえば、各人がどれだけ影響を受けているかはこれは実に様々。人間の感受性がセンシティブになっている。昔は死亡率のすごい時代があって、100年前だったら、出生した1000人の内200人死んでいる。ミクロでみてもいくらでも問題はあるとは考えてる。環境問題は元々マクロな問題。ミクロをどれだけよくするかは、わからない。環境問題はどちらかといえば平均的なマクロな話をしていていいのではないかというのが私の考え方。丸山先生の言うことは大体私と同じではないかという気がしている。そもそも人間は地球にどれだけ負荷を与えていいのか。そういう考え方が大事。生き死にの問題から早く離脱しないと、本当の問題が解決されないということを言っていたと思ってほしい。人為起源かどうかを考えると、天然由来のものの方がリスクが大きい。アフロダクシンだとかカビの毒性はダイオキシンの比じゃないんですよ。14才未満でガンになる大部分の原因はアフロダクシンじゃないかと言われている。天然のリスクがあって、人口のリスクがその上ににちょっと被っている。生き死にという問題に限っていえば、人為起源のリスクは大きくない。では、こういう本質をどうやって見抜くか。はっきりいってこれは難しいですよ。本はいろいろある。単行本を選んで読めばいろいろわかる。政府系の文書は非常に充実しているけれど、あれを読んで意味がわかるやつほとんどいないな。私はインタープリターとして自分のHP上で説明していて、私自身も「んーこれどういう意味だろう」ということがよくある。私は材料屋ですから、白川さんのようにノーベル賞をとるという立場でもあったけれど、私は社会を対象にして取り組むことをしています。マクロとして環境をどう見るか。ミクロな個人の環境との関係をしっかりしないと、環境問題の本質は見えない。」


廣野

「質問は第二セッションでは、リスクは誰が決めるのか。という話をしたいと思います。丸山先生、締めを。」


丸山

「とても締めるところまで行かないと思いますよ。締める代わりに一つのエピソードを提示しようと思います。昨日、一昨日、名古屋に行って、環境団体の前で話をした。ほとんどが40代以上の方だったのですが、色々な議論をしたあと、学生さんが手を挙げて、みなさんの議論はわかったと。スローイズビューティフルもわかる。しかし20歳の僕には納得ができない。皆さん方40代以上の方はふんだんに物を使ってきて、何が今さらスローだと。大量消費を経験できない。経験してきた人に言われても説得力がない、と言われました。なるほど、そういう受けとめ方もあるのかと。私は若い人は林先生みたいに環境問題をばねにしてわくわくするような未来社会を築いていくんではないかとおもっていたけれども、名古屋の青年は非常にさめた目をもっていました。いいこと言っても理想の社会は来ないといわれてしまいました。私にとってはショックだったのですけれども、そういう話がなかったとしたら、結論は、一人一人に合った冷房装置を与えるのではなく、外に出て空気を吸おう。そういおうと思っていた。しかし、高度な消費社会を生きてきた私にそんなことを言う権利はないのかなと感じています。」


廣野

「私はもともとデカルトをやってきた哲学者でして、哲学とは何かというと、答えを出すことではなくて問いを的確に問うことだという。環境の問題も、おそらく皆さんも高校時代にこれが環境問題だ、という漠然とした思いがあったとしたら、 今回の講義、今のディスカッションで、おや待てよ、環境問題の広がりとは簡単なものではなかったとそういう認識をしてもらえればいいと思うんですね。結論が与えられると思ったら大間違い。そういう態度を打破するのがこの講義の狙いであったと思います。


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