第5回講義内容

自然破壊を視点に新しい歴史観の創造へ


東京大学大学院総合文化研究科 超域文化科学・比較文学比較文化 義江彰夫

*編者注 
 参考文献は文中で印を付け、文末に一括して表示した。
 

Tはじめに 


 私は1980年代前半よりはじめた原始より中世末までの日本通史の執筆を85年に終えた。しかし、その通史が近現代市民社会が理論的支柱とした発展・進歩史観を超えておらず、人間と自然関係との関係史に殆どふれていなかったことを痛感した。公害・大気汚染などといった日常生活に密接な、身近なことからも地球環境問題の緊急性を感じてはいたが、おりしもチェルノブイリ原発の事故を迎えた時期でもあり、問題意識と自らの研究活動とがまったく結びついていないことに気づき、深い衝撃と絶望を感じた。
 そこで、一人の歴史研究者として、人類の文明の様態の中に自然環境破壊を必然のものとする要素が内包されていることを認識し、その克服の可能性を探り当てることこそが、歴史学の、絶対に避けて通れない重要な課題と考えるに至った。
 

U対自然関係史観による進歩史観の再検討


a歴史的に物事を考える必然性について
 環境問題は人類の活動によって必然的にうみだされたものであると同時に、現実に存在する重大な危機である。この解決に対して、歴史学という学問がどのように貢献し得るのかをまず最初に述べておきたい。
 人類は大きな危機的矛盾に逢着した時、ほとんど例外なく、空間軸のみならず、時間軸を通してその矛盾の形成の根源と解決を探り当てようとし、そうすることで、はじめてより新しい社会を築くための論理を用意することができた。例としては、ルネサンスなど枚挙に暇がないが、特に好例として、市民社会という新時代建設への理論的支柱を用意した啓蒙思想が挙げられよう。
 当時の啓蒙思想家、特にジャン・ジャック・ルソーに注目してみる。彼は、『人間不平等起源論』において、原始時代には、私有のない人間の平等な自然状態があったとした。そしてそれが破壊され、矛盾に満ちた社会状態へ移行したと考えた。そこで、この矛盾を解決するには、もはや復活させることのできない自然状態の代替としての次善の作為、つまり社会契約という制度を用意せねばならぬと説いたのである。
 
 かように環境問題についてもやはり、先人たちと同様に、歴史的に思考し、深い洞察を持って捉えてゆかねば根本的な解決に至ることはできない。
 
 b進歩史観の陥穽(おとしあな)
 人間は火と道具を用い、言語を操ることで、自らの欲望を主な原動力としつつ自然を制圧・使用・所有・支配・乱費することで進歩を遂げて現代に至り得た。一般的にはこの進歩を暗黙のうちに肯定する態度で、歴史の記述は行われている。この態度を進歩史観と言うが、しかし、逆に言えば人類の進歩の歴史とは、とりもなおさず増大する自然破壊の歴史そのものである。このことをけっして忘れてはならない。
 では、歴史学という学問そして現代という時代に、進歩史観を克服するものとしてどのような歴史観が求められているのだろうか。
 
 c求められる新しい歴史観
 求められる新しい歴史観の骨子は
 
@人類の進歩の歴史を、増大する自然破壊の歴史と見る。
A同時に破壊された自然環境との関係を修復するたゆみない努力のプロセスとみなおす。
B上記の視点に立ちつつ、従来の歴史、即ち人間関係史を総合的に洗い直し、人間支配と自然支配の関係は、それらを克服するために密接な関係にあることを論理的に解明する。
 
 以上の3点に集約される。少し唐突かと思われるので以下において特にBに重点を置いて具体的に論じる。
 まず、マルクス主義や社会主義を例に挙げてみる。これらの思想は私的所有を諸悪の根元としてその止揚を制度上の目標としていたが、その実、社会的不平等(特権階級をもつ官僚制、弾圧・投獄などの人権の抑圧)といった人間支配の再生を許しており、結果的には1990年代冒頭ヨーロッパを中心に経済事情の破綻によって瓦解した。
 実は、この事実は深いところでは自然環境との関わり方とリンクしている。
 マルクス主義は、自然支配を肯定していた。その理論において、「自然環境の搾取」などという概念は全く存在していない。このようなスタンスに基づいてはたらく社会システムの内部では、自然破壊(自然環境の過剰な利用・酷使)への痛みのこころが人々の間にまったく存在しない。それは、自然環境が純粋な生産の手段としての「資源」でしかなかったからである。このような様式で自然の乱費が許される社会では、やがてこころを持った人間というものが、「労働者」という単なる生産手段に置き換えられてしまうのも無理はない。結果的に自然支配と同じ論理で人間支配が立ち現れてくるのである。
 上に挙げた共産主義国家の例を総じて言うと、自然支配にせよ人間支配にせよこれらはすべて、人間の欲望に対する抑制がうまくいっていないことに原因がある。両者の関係は非常に緊密なのである。
 
 さて、今度は以上に述べたことを本稿の以下部分で、日本史に即してさらに実証的に論じてみたい。
 
2)対自然関係史観に基づく日本史の見直し
a原始社会の人間と自然
 人々は生存のため、未開地を開拓する。その後、神(自然)の怒りや自然(神)を犯したことへの罪を自覚し、贖罪としての犠牲献上など、自然(神)との妥協や住み分けの道を模索していった。
 事例としては、古代パレスチナに関する著作に以下の記述が見える。
 
 旧約聖書の多くの章句から知られる所であるが、古代イスラエルでは、宗教礼拝を行う正式の場所は自然の丘の上にあって、ほとんど一般的には、そこはこんもりとして神さびた樹木に覆われていることが多かった。(1)
(J・G・フレーザー 『旧約聖書のフォークロア』)
 
 とした上で、フレーザーは祭祀場所に丘の上を選ぶ事実が他の地域にも存在することを事例を挙げて記述する。そして最後に以下のように結論づける。
 
 以上のような類似性から判断すると、後期予言者たちをあれほど憤激させた古代パレスチナの聖なる森は、おそらく原始の森の名残であり、孤立した丘の上に地方神の避難所として残された緑の小島であって、農民たちはその神々から広大な土地を奪い取ってしまったが、その土地の真の所有者すなわちバール神として、土地から得たあらゆる産物に関して神々に対する貢納の義務があると信じていた。
(2)(前掲書 同上部)
 
 この記述から判断して、以下のように言えよう。すなわち、農民たちは自らを取り巻く土地を開拓してゆくことで生存できたが、その一方で自らの活動が本来「神の土地」であった自然環境を破壊することで成り立っていることに気づいていた。そして、自らの行為に対する罪の意識を持ち、それを贖罪するために神への祀りを行っていた。   ところが、以上の事実と酷似する内容が『常陸國風土記』に紹介されているのである。  
 
(編者注:この史料では霞ヶ浦一帯の低湿地帯を切り開こうとした際に、「夜刀(やつ)の神」と称する頭部に角を抱く蛇によって事業を阻まれたという伝承が紹介されている。伝承では結局この蛇は麻多智(またち)という武人によって倒されるのであるが、この事実に関して以下の記述がなされている。)
 
 是に麻多智大きに怒の情を起こし、甲冑を着被(つ)けて自身仗を執り、打殺し駆逐(おい)やらひき。乃ち山口に至り、標しの杖を堺の堀に置て、夜刀(やつ)の神に告げていひしく、『此より上は神の地と為すことを聴(ゆる)さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後、吾(あれ)、神の祀(はふり)と為りて、永代(とこしへ)に敬い祭らむ。願わくは、な祟りそ、な恨みそ』といひて、社を設けて初めて祭りき、といへり。(3) (『常陸國風土記 行方郡』 )
 
 ここにもやはりフレーザーの記述同様に、生存してゆくために自然環境の破壊を行いつつも、その贖罪として神をていねいにお祭りすることを通じて、自らの破壊した自然環境の修復を行おうとする営みが記述されている。
 また、ブッダの直接の言動として非常に信頼度の高い史料『ブッダの言葉(スッタニパータ)』では、強欲なバラモンが浪費に満ちた行動が原因で古代から現代に至るインドの位階性が生じたとして、物欲と人間支配の関係性を鮮やかに言い当てている。(4)
 
b自然支配と人間支配(特に、古代中央集権国家体制の伸長期)の論理的同時性
 古代律令王権は、地方豪族の祀る神を超越する霊力を備えた、日本列島全体を統べるものとしての「天神(あまつかみ)」を設定して地方神を圧伏し、それだけでなく天神の霊力を、地方豪族・民衆の成し得なかった、より大規模な自然支配の論理として利用し、実現した。
 先述の『常陸國風土記』を再度引く。
(編者注:麻多智の記述の後に、孝徳天皇の時代に壬生連麿(みぶのむらじまろ)という人物が、麻多智が「神の地」とした谷に用水地を築こうとしたが「夜刀の神」に阻まれた、という記述が見える。壬生連麿は)
 声を挙げて大言びらく『此の地を修めしむるは、要(むね)は民を活かすにあり。何の神(あまつかみ)、何れの祇(くにつかみ)ぞ、風化(おもむけ)に従はざる』(5)
(『常陸国風土記 行方郡』)
 
 として、労役に従事する住民に命令して、ためらうことなく工事の妨げとなる生き物を打ち殺すように指示している。これは一見するとただの人間中心主義のように見える。しかし、それ以上に、この記述からは、教化という儒教的合理主義を持ち出すことで、天皇を頂点とする律令国家支配の強力な肯定を行っていることが読みとれる。
 こういった、風土記には明記されていない裏の論理は『日本書紀』にも見える。
 『日本書紀』中の天孫降臨を描いた場面に以下のような記述がある。 
 
 皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を立てて、葦原中國の主にせむと欲す。然も彼の地に、多に蛍火の光く神、及び蠅声す(さばえなす)邪しき神有り。複(また)草木ことごとくに能く言語(ものいふこと)有り。
(6) (『日本書紀』)
 
 神話では、高天原から最強の雷神を2名使わして、結局は征服に成功する。ところが、この征服に際して、日本書紀では、土着の生き物たちはみな、征服者たちによって人間並みの言語能力を奪われたとあるのである。
 日本書紀とは過去のことを記述した神話である。つまり朝廷は過去の業績を神話の中で語らせることで、自らに偉大な自然支配の能力があることを提示し、地方豪族・民衆らを中央集権的に統合するステータスを手に入れ、人心を安堵する論理としたのである。
 かようにして、王権は国土における唯一の自然支配者として、自らの統治の正当性をうちたてることとなる。
 
 このような論理に裏付けられて、律令国家の名による開発はいくらしようとも構わないという発想が生まれてくる。
 こういった風潮に後押しされて、特に奈良時代には「五畿七道」に代表されるような積極的かつ人為的な自然開発が行われた。この幹線道路は、可能な限り直線になるようしたもので、幅は9〜14mほどもあった。調査してみると、山があろうとなかろうと可能ならば直線にしようとしているのが分かる。こういった開発としては、地形を無視して純粋に方角で地割りをした条里制なども好例として挙げられよう。
 以上のように人為的な開発が盛んに行われたのである。
 
c中世における動向   
 中世では、王権だけでなく民衆レベルで仏教を理解できるようになってきた。まずこのことの裏付けについて、簡略に説明してみる。
 それまで民衆はきわめて未開な共同体的土地所有を行ってきた。ところが徐々に「家」を土地所有の単位とするようになり、結果的に個別的・私的所有がはじまる。すると人々の間には、必然的に、自分自身の所有や生産活動のために行われる自然破壊への罪を、贖おうとする意識が芽生えてくる。そういった人々の内面的欲求を満たす形で、共同体的信仰から脱却して私有を罪と捉え、その贖罪を説く仏教が浸透してゆくのである。
 仏教(浄土教)を受容することで民衆はみずからの所業に対する贖罪の意識を明確に身につける。しかし乱開発を止めたかというとそうではない。より一層進めたのである。むしろ仏教的論理を用いて自然破壊を正当化していた。これを説明するには少し仏教の内部に立ち入って見る必要がある。
 本来のブッダの教えをそのまま受け継いだ小乗仏教では、いっさいの私有を禁じ、ブッダの教えを奉ずる人々は世を捨てて出家せねばならぬ、としていた。しかし大乗仏教においては、そういった修行は専門家である僧侶に代行させ、その代わりとして、寄付を「供養」の名目で行えば十分に罪を贖うことになる、という方向に変質した。そのために結果的には、罪を認めたが隠蔽もするということになってしまった。
 好例としては大規模に行われた「放生会(ほうじょうえ)」がある。この儀式は自然破壊(=殺生)に対する贖罪を司る一方で、こういった儀式を行いさえすれば、罪はいっさい浄化された、とする免罪符的な論理をも内包していた。かように中世では、結果的には自然破壊を強力に肯定する方向にイデオロギーがはたらいている。
 ただし、仏教の殺生を禁じる教えは、この風潮に対する枷としてそれなりに機能していたため、自然破壊は限界を超えない程度に止まった。
 
d近世における動向
 近世は種々の変化が見られ興味深い。特に江戸時代で商人が大きな成長を遂げたことが挙げられよう。商人は武士階級と日本列島のリーダーシップを巡って大いに争ったとさえ言ってよいのである。この傾向は戦国時代からあった。
 好例としては千利休と豊臣秀吉との確執が挙げられる。利休は商人階級の発想として身分制秩序が緩やかで身分横断的な社会統合を目指していた。一方で武士階級は、信長にせよ、秀吉にせよ、家康にせよ厳格な身分制秩序にのっとったハイエラキカルな社会を望んでいた。実際には利休の死に見られるように、この商人たちの理想は実現しなかった。
 しかし、商人たちは、現実社会の政治的レベルでは達成できぬ理想を、文化と思想(利休の場合は「茶の湯」の確立というかたち)の領域で築き上げたのである。この自由で、あふれでるような商人たちの思想はやがて江戸時代の社会全体を覆っていったのである。
 以上のような傾向が近世の支配的な思想状況の興味深い性質と言えよう。
 
 このような傾向は自然と人間との関係を考察する思想にも反映され、町人の思想の中に実に興味深い議論が見える。
 大阪の商人であった山形蟠桃は『夢の代』の中で、あらゆる既成の宗教や政治体制・社会規範を批判・罵倒し尽くし、非常に自由な議論を展開している。例えば、記紀の中にある「天尊降臨説」を否定し、まず人間の存在が先にあって、その後で社会の混乱を鎮めるために王を人間が設定した、という説などである。また仏教は、贖罪さえすれば何をしてもよいとする論理を内包するので、それは欺瞞だと指摘し、ブッダこそ地獄で閻魔大王に舌を抜かれるべき罪人である、としている。
 このような過激な思想さえ出てくる状況にあっては、仏教によって自然と人間との本来的関係が隠蔽されている事実を批判し、より一層ラディカルな思想を展開する者がいても、何ら不思議ではない。それは、自然支配および人間支配の全面否定と「直耕」を唱える安藤昌益である。
 安藤は本来人間には身分の違いなどなく男女は平等だと説く。私有も身分制もなく、人々が等しく自らの手で農耕に従事し(「直耕」)、平和な営みを行うという理想的状態があり、それこそが自然の摂理にもかなう「自然・活眞人ノ世」であるとする。
(7) (安藤昌益 『自然眞榮道』)
 続いて安藤は、そのような理想状態が破壊され、種々の矛盾の問題が存在する現実の中で、土地を一方的に乱費することなく「直耕」を通じて自然の運行と人間の生命とが循環するような状況をつくり出すために何をすべきなのかを提言している。
 このような思想さえ江戸時代の町人たちは生み出していたのである。
 
 さらに、上記の町人たちを同じ18世紀の時代の西欧の啓蒙思想家と比較してみると、自然との関係という視点においてはまったく遜色ないものであることが分かるのである。
 近世西欧では合理主義発達の下で、開発という自然破壊をより正当化する認識が発展した。しかし、同時にそれへの反省と批判も登場した。好例としてジャン・ジャック・ルソーが挙げられる。
 ルソーは『人間不平等起源論』において、私有も身分制もない理想的な自然状態が失われたことと、その代替として社会状態をつくり出す必要を明快に論じている。しかし、そういった人間の史的展開が自然破壊を伴うものであり、その修復がどうしても必要だとする視点は、明らかな形では出てこないのである。
 ルソーの論においては、まず中心に自然状態への回帰という観点があり、それが困難なのでやむを得ず、という文脈で「社会契約」が提示される。それに、自然状態を想定する場合には当然、自然環境との調和を意識せざるを得ない。そのため決して、ルソーは自然との関係について、関心がなかったわけではないと思われる。しかし、自然との調和を実現するための具体的な提言や具体的かつ説得的な言及はない。
 ルソーのように近現代社会に対して多大な影響を与えた思想家でさえ不十分であった考察を、安藤のような者が深く捉えているのである。安藤の結論は、多分に理想的にすぎるものではあるが、それでもなお、具体的な思弁によって人間と自然との相互依存関係によって成立する社会を提示している。この二者には相当な開きが在ると言ってよい。 
 

V私たちの時代に向けて


a近現代における動向 
 開国以来、日本は、近代欧米市民社会論や社会主義などを次々と導入した。しかし、積極的に自然との関係を修復しようとする論理は見られなかった。
 近代以降の歴史的思想状況から、自然と人間との関係という視点が急激に見えにくくなってくる。これには西欧思想にはたらくキリスト教の論理の影響も見落としてはならない。
 しかし、草の根のリサイクル運動などが伸長している事態をみると、日本人から自然との調和に対する意識が捨て去られたとは思えない。長い歴史をかけて育ててきた自然と人間との関係に際する意識を取り戻しつつあるのではないだろうか。
 学問に従事する研究者として、そういったトレンドににもう一度理性の光を当てしっかりと組み上げてゆく必要性を感じている。 
 さて、ここで文化的土壌の背景とエコロジーの関係を考えてみたい。ヨーロッパではキリスト教が「救済」の対象を人間に限っていることが大きな枷になっている。けして動植物は救われない。近代以降、キリスト教から独立して、ルソー、マルクスの社会主義、マックス・ウェーバーの社会学、ポストモダン主義等が出てきたが、依然キリスト教的発想に制約されて、自然と人間との関係に敏感な思想はあまり出てきていない。
 
b現代の課題 
 今日に至っては、環境問題の緊急性によって欧州諸国は、日本以上に非常に先進的な対応をしており、人間中心主義を人間の「驕り」として反省する態度も、欧州諸国に生まれはじめている。しかし、全体的には、やはり思想的には困難な位置にあると言ってよい。
 日本や中国などアジアは、仏教文化圏にある。仏教は確かに人間の罪を隠蔽する性格を持ってはいるが、殺生を禁じ、生きとし生ける者すべての平等を伝えている。
 このような仏教の言葉をご存じだろうか。
 
 山川草木国土番皆成仏
 
 中国では仏教は一般階層には、このようなかたちでは浸透しなかったが、しかし、人々の間には、こういう言葉がある。
 
  恨みに報ゆるに徳を以てす
 
 最近この言葉を知ったのだが、これは『論語』の中にも、その正反対の体型を持つ『老子』の中にも見えるのである。中国思想の根底を流れる発想といってよいだろう。
 先日、1年前放映された、NHKと中国との合作ドラマ『大地の子』に出演した朱旭さん(養父・陸徳志役)にお会いすることができた。その時に、この考え方が中国に一般的であることをうかがったのである。例えば、戦争は大人どうしのことであり、子供には関係ないのだから、戦争遺児は拾って自分の子として、育ててあげるのが道理だというのである。
 さらに、朱氏によると、このような精神は人間の以外の動植物にも拡大すべきなのであり、そういった考え方は中国国民にとって自然なのだ、という。今なお社会主義体制下にありながら、人々の間にこのような考え方が一般的であることに衝撃を感じた。
 以上のように、環境問題を考えてゆく上で、アジアは重要な文化的土壌を持っている。こういった発想に寄り掛かってはならないが、それを活かしてゆく必要性は多いにある。
 
 現代我々はようやく欧米思想の達成およびその限界をも見届けた。その一方で古代以来日本人が思想的に育んできた、自然との関係を修復しようとする認識の成果を、結びつつある。これをどのように継承・発展させてゆくかが今後の課題となるであろう。 
 

W講義終了後のフロアより

 
フロア:
 先ほどの朱氏のいう人間以外の生物への慈愛の精神は、本当に中国では一般的なのか。 
義江氏:
 明快には言いかねることだが、中国は実に荒々しい自然の在るところ。人が生きてゆくためには、自然との凄惨な戦いを避けて通れないのである。
 先日中国を旅した折、濁流の揚子江を下った。それは生活排水とゴミ(コカ・コーラの缶まで)と、流入する土砂で阿鼻叫喚の状況を呈していた。さらにこの河は定期的に洪水を起こすのだという。また、山崩れ崖崩れが至るところで起きていた。そんな中で段々畑をつくり耕作を行っているのである。
 中国では、自然への畏怖という観点が強いものと思われる。それが敬意にも似た献身的態度を中国人に抱かせるのではないだろうか。
 

X本稿作成者より

 
 環境問題に対する文明論的アプローチは種々の批判を迎えつつ、次第に出はじめているといってよい。しかし、環境問題に限らず、人類の活動の累積としての歴史を通じて、確固たる文明論的分析を行える研究者はそう多くないであろう。そんな昨今の状況を思い浮かべてゆくと、大学新入生を前に義江先生が行った講義の一節が想起される。
 *かっこ内は本稿作成者による補足
 現代社会と日本は根本的な社会変容の時代にある(現行の生産活動・法体系などの社会システムや、大量生産・大量消費型ライフスタイルの矛盾など)。ヨーロッパ市民社会の論理が世界史的に終わろうとする時代である。それは一つには、「国民国家」という体制のシステム疲労から、ボスニア・ソ連のような民族問題等の形で深刻な問題が生じていること。そして二つには、自然への犠牲を無条件に前提したかたちでのみ繁栄が可能である工業社会の行き詰まりが明確であること、などである。
 同時に将来への展望が依然として開けていない。このような時代、人間は古くから、常に、文化領域で将来の社会像を模索し、描き出してきた。このような状況の例としては、啓蒙主義と市民革命、市民革命と社会主義革命、浄土信仰と中世成立の時代、連歌・茶の湯と天下統合、国学・町人思想と明治維新等が挙げられる。
(義江 1996年度冬学期 東京大学前期課程講義「歴史U」講義初回より)
 
 先人たちに学ぶ、などというと、それはあまりに言い古されたことのように思われてしまうかもしれない。しかし、人類が対面し、時には多大な犠牲を払いながらくぐり抜けてきた出来事は数限りなく、それは、時間的にも空間的にも制約を受けている一人の人間の行動範囲をはるかに超越していることは否めない。そして、それぞれの時代に生きた人々にとって、出来事は常に「現在」であったことを忘れてはならない。
 環境問題は人類の活動と不可分の位置にあり、その累積によって顕在化した現象である。ゆえに、人類史全体にさかのぼるスケールで捉えてゆく視点が、どうしても必要だろう。 さらに、この問題が次時代を見いだし切れていない20世紀末という時代に立ち現れていることも忘れてはならない。環境問題は人類社会の大きな転換点を示唆しているのである。
 環境問題は浅薄な小技では太刀打ちできぬ深さを持った現象である。私たち自身の創造力の中から、そして、「私たちの歴史」というかたちで残された膨大な情報の体系の中から、新たな展望を探り出してゆかねばならないと考える。
 
 目に見えるかたちになりにくいものは、議論されにくい。しかし私たち、ないしは私たちの生きる現代というものの奥にあるものを捉えようとする、視野の広さ・深さなくしてよりよい議論は成り立たないのではないだろうか。
(本稿作成者 森 泰規)
 

Y)資料・文献一覧

 
(1)J・G・フレーザー『旧約聖書のフォークロア』
 第三部 士師と列王の時代 
 第八章 イスラエルの高き場所 
 p .432上段部l.1-4
 太陽社 太陽選書29 1976 
 
(2)前掲書 同上部p.438下段部 l.1-8
 
(3)『常陸國風土記 行方郡』p.55-56
 岩波日本古典文学大系(1958)より]
 
(4)『ブッダの言葉(スッタニパータ)』
 第二小なる章 七バラモンにふさわしいこと   p.62-67岩波文庫 1984
 
(5)『常陸國風土記 行方郡』 p.56
  岩波日本古典文学大系より
 
(6)『日本書紀』 p134
 岩波日本古典文学大系(1967)より
 
(7)安藤昌益 『自然眞榮道』
 私法・盗乱ノ世ニ在リナガラ自然・活眞人ノ
 世ニ契フ論
岩波日本古典文学大系『近世思想家文集』(1966)
                   より