「環境の世紀 未来への布石V」報告書

  

第6回 生物の多様性とその保全

講師 大学院農学生命科学研究科応用動物科学  樋口 広芳 

 
目次
      1 はじめに
      2 生物の多様性の世界
      3 生物の繋がりと保全の意味
      4 講義後のディスカッションより
  

1 はじめに
 環境問題はさまざまな側面を持っている。その中で、注目されやすいが比較的正しく理解されていない問題に生物多様性がある。この講義では、生物多様性とはいったい何なのか、さらにそれを保存するということは何なのか、という非常に基本的なことについて扱いたい。

 生物多様性は複数の側面を持ち合わせているが、とりあえず地球上にいろいろな生き物がいること、と考えておいていいだろう。それが異なる意味合いや側面をもつことは話を進めていくうちに提示していこう。

 私たちが住むこの地球という星は、率直なところ、非常に不思議なことに実に種々さまざまな生き物がいる。夜空を見上げれば無数の星屑が目に入ってくる。その数はまさに無数であり、その無数の星の中の一つの星に私たちの地球があり、その中に実にさまざまな生き物が生活している。地球以外の星に生命が存在するのかということは、大問題であり、また未知の問題である。あれだけの星の中に一つぐらい生命が存在してもおかしくないと個人的には思うが、とにかくゼロに近い確率で地球に生命が誕生し、そして実にさまざまな生物が誕生してきた。

 いろいろな生き物を思い浮かべてみよう。小さなものだとアメーバやゾウリムシ、もっと小さくなればウイルスなど、顕微鏡でなければ見ることが不可能な生物がいる一方で、他方には種々さまざまな昆虫が生活し、また植物が光を求め、多様な動物、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類などが営みを絶えることなく続けている。その数はこれまで科学の世界に知られているだけで約140〜150万種にものぼる。私たち人間もその中の一つでしかない、ということをまず認識する必要がある。私たちは北極や南極、海洋に至る地球上のあらゆる環境に生息して莫大な数の人口を持っている。その人口爆発が原因となり私たち自身が必要とする水を汚し空気を汚染し、さまざまな生き物との関わりの中で多くの生物が絶滅の危機に瀕している、という事態が生じてきている。

 人間は地球上の他の生物がいなければ存在できない。人間は動物であり、動物は植物と決定的に違い、自分でエネルギーを作り出すことができないということは承知の事実である。ヒトを含めたすべての動物は生産者である植物が作り出した有機物を消費して生存している。ヒトは植物の他にいろいろな動物も利用して地球に生活している。ヒトを含めた全ての生命は、他の生き物とのさまざまな関係があって生存していけるのである。多様な生物がいることの意味を考え、その多様性を未来へ繋げていくということは、例えばトキやゾウやアホウドリ、パンダといった動物たちを単にかわいいから保護する、といったレベルとは根本的に異なる問題である。トキやパンダが本当に必要なのかは留保しても、地球上にいろいろな生き物がいて繋がりあって暮らしている、そしてその繋がりの中で私たち人間も存在していることは確かである。そういう生物同士の繋がり、多様性を保全するということは、私たち自身の今後の存続を可能たらしめるものであって、私たちは生物の多様性を保全する必要がある、と考えられるのである。

  
2 生物の多様性の世界
2.1 生物の種数

 地球上には既知の生物だけで百数十万、未発見のものはさらに膨大にあり、それらを含めると、1000万種とも3000万種とも、あるいは一億ぐらいいるのではないかとも言われている。

(講義では種々の生物写真のスライドを使用して話された。視覚的に多様な生物の世界を窺い知ることができる。)

 昆虫は現在約75万種知られており、未発見の生物の大部分も昆虫が占めていると言われている。昆虫はヒトと並んで非常に勢力を伸ばしている生物で、地球は昆虫の惑星と言うこともできるのではないだろうかと思う。未発見の生物は熱帯雨林の樹上や深海底などに多数存在していると考えられている。

2.2 多様性の意味、仕組み

 まず生物の多様性を間近にしたとき疑問に思うことは、なぜこれほど姿形、色、習性の異なった生物が存在するのだろう、そしてそのさまざまな生物がいる中でヒトはなぜ生まれてきたのだろう、ということである。とりあえず生物の多様性の意味について探ってみようと思う。

 地球にはゾウ、スズメ、チョウ、カメ、メダカ、サクラ、コケなど実にさまざまな生物がいる。しかしなぜ、このように多様で膨大な種が存在できるのだろうか。ここで全体的な生物多様性の枠組みで考えてしまうと答えは非常に見つけにくい。そこで身近な東京近郊の自然でごく普通に見られる生物を対象にその問題に迫りたい。ここで取り上げる生物(鳥)として、ツバメ、カワセミ、シジュウカラ、カルガモを挙げる。彼らはなぜ異なる生き物として認識されるのだろうか。結論からいうと、まずは異なる種の生物は自然界の中で、違った場所で違った食物を違った方法で取って食べ、それにあった体の構造をしているということがいえるのである。

1 多様な生活

 シジュウカラは典型的な小鳥の姿をしている。森林の枝葉の間を動き回りくちばしで昆虫などを捕らえて食べている。ツバメはシジュウカラとはまったく違っている。ツバメは空中生活者である。飛びながら飛んでいる昆虫を食べているのである。森林の中にいてぴょんぴょん飛び跳ねているということはない。ツバメはシジュウカラと比べると、翼が細く長いいわゆる燕尾形でより速く飛ぶことができる。その特徴を生かして空中の昆虫をすばやく捕まえている。つまり、習性と体の特徴がそれぞれ一致しているのである。カワセミは緑色の羽を持つ美しい鳥だが彼らもまた、シジュウカラやツバメとは大きく異なる習性、特徴を備えている。水辺に住み、くちばしから水面に突っ込み魚を捕らえ、枝に戻って食べる生活をしている。くちばしは魚を捕まえるのに都合のよい形態をしている。同じ水辺に住む鳥でもカルガモはカワセミとはまた異なる生活者である。扁平なくちばしを持ち足に水かきがある。そして水面を泳ぎながら小さな藻を取って食べている。実はくちばしのへりには櫛状の突起が並んでいるのである。

2 近縁種間の違い

 今みてきた4種類の鳥の例では、それぞれ違った場所で違った食物を違った方法で取っていて、そのことに適した構造を備えているということが、まず重要な点である。さらにこの4種類の鳥はかなり類縁の遠い鳥類であるが、類縁のより近い種、たとえば、ヒガラ、コガラやヤマガラなどの仲間もシジュウカラと似たような姿、生活、行動をしているように見える。しかし非常に似てはいるけれどもよく比較してみるとやはり、それぞれの種が微妙ではあるがはっきりと違った場所で違った方法で違った食物を得ている、ということがいえる。つまり種が異なれば類縁の生物でも「違った場所で違った食物を違った方法で取って食べ、それにあった体の構造をしている」という原則は当てはまるのである。また、個々の生物種はある特定の仕事をすることに専門化しているということができる。ツバメは空中生活者として、カルガモは水辺の藻を食べる生活者として専門化しているのである。

 その点で興味深いのは、類縁の鳥の中で体の大きさが段階的に異なるものがいるという事例である。水田によく見られるシラサギには、ダイサギ、チュウサギ、コサギと名前どおり大きさの異なる種がいる。他にもタカの仲間ではオオタカ、ハイタカ、ツミ、キツツキの仲間ではオオアカゲラ、アカゲラ、コゲラといった大きさの違う類縁種が見られる。彼らは体の大きさの違いを生かして異なる大きさの獲物を取って食べている。オオサギはその長い足でチュウサギ、コサギの入っていけない深い水辺に入り、大きな魚を食べ、小さいチュウサギ、コサギは小さいなりに機敏に動き、より小さい魚を採っている。それぞれが自然界の中で専門家として存在している。だからこそ、一つの水辺、森林、草原のなかで類縁の種が共存することができるのである。このことは爬虫類でも哺乳類でも、他の生物においても基本的に変わらない。

2.3 多様性の進化

 次に疑問となるのは、生物の多様性が地球上における進化の産物として発生してきたものであるならば、どのように多様性は生じてきたのか、という進化の仕組みそのものである。進化というものを認めない研究者も特にキリスト教圏では存在しているが、恐らく世界の始まりからすべての生物が存在していたということはあり得ないだろう。やはり、地球上に生命の起源となるような物質ができ、それが姿形を変え、種々の生物を生み出してきたのだろうと考えられる。

1 種分化と適応放散   

 ここでは一つの種が別の種に分かれていく種分化について考えてみたい。

 日本にはセグロセキレイ、ハクセキレイという鳥がいるが、このグループに属する鳥は広くユーラシアに分布している。比較すると地域によって少しずつ顔の色彩、模様などが異なっていることがわかる。恐らく共通の祖先が分布を広げる中で違いを生じてきたのだろう、ということは十分に想定できることである。

 一つの種が数種類あるいは多数の種に分化していく現象は、小さな島が多く集まる島嶼部で顕著に見られるものである。先ほどのヤマガラも、本州と伊豆諸島では同じ種であっても色や大きさに違いがあることが分かっている。

 地理的に離れた場所で、独自に遺伝的変異を積み重ねていった結果、色や習性が変化していくということが考えられ、また、それぞれの自然環境に体を変化させて適応していった可能性も十分ある。こういった事例は世界のいたる所で観察することができる。

 ここで、一つの種が地理的に隔離して暮らしていて、あるときまた同じ地域で生活するようになったとしよう。その時点で、各々の地域の個体(群)が進化の中でそれまでに積み重ねて発達させてきた特徴、習性が、あまりにも地域差が顕著になってしまったとき、もともと同一種だった個体群どうしは、もはや互いに交雑できなくなってしまう。こうして自然界の中で別の種として存在するようになる。新しい複数の種がここで誕生した、といえるのである。

 種分化の過程で必要なのは異なる個体群の間に生殖隔離が起こることである。そして異なる形態、生態、行動をもつようになったそれぞれの種は、同時に独自のすみ場所や食物を利用するようになる。つまり独自の生態的地位(ニッチ)を占めることになる。ある一つの種から形態や習性が異なる多様な種が誕生していくことを「適応放散」と呼んでいる。

 この種分化、適応放散は島嶼だけでなく山岳や草原等で次々に起こっている。それは、たとえば南米エクアドルのガラパゴス諸島(ダーウィンが進化論を思いついたという)で、スカレシアという植物、ダーウィンフィンチという鳥、ゾウガメなどで認められ、またハワイ諸島のショウジョウバエ、ハワイミツスイと呼ばれる一群の鳥を通しても観察することができる。大きな例ではオーストラリアの有袋類も挙げられるだろう。古い時代に他の大陸から隔てられてきたために有袋類が種々に分化し、アジアや北アメリカの有胎盤類と似た形状、生態をもつ動物群が存在してきた(収斂)。

2 適応放散と多様性進化の過程

 ここでの核心は、適応放散は特殊な一部の例のみに当てはまる現象、概念ではない、ということである。ある生物がいて、体のつくりに変化を生じたとする。すると、新しい生活領域で他の生物がこれまで利用しなかった空間や食物を利用することが起こりうる。その生物にとって、それまで拓けなかった生活の可能性が一気に広がることになる。それは特殊な事ではなく、少なくとも生物の暮らしという点では、ガラパゴス諸島に最初に辿り着いた小さな鳥、ハワイ諸島にやってきたショウジョウバエ、あるいはオーストラリアに残った有袋類が、他に競争する生物が存在しなかったためにいろいろな形態、生態に適応放散していく可能性を手に入れた、ということと基本的に同じなのである。

 例えばカモの仲間の祖先を想定してみると、元来とがっているくちばしが扁平な形状を獲得し、足に水かきが現れた鳥であろう。そうすると、水辺を泳いで小さな藻を濾しとって食べるという生活が可能になる。カモの祖先には水辺の空間と食物とを一気に得て、今後の進化の可能性を大きく拡大することになる。水辺の環境は一様ではないので、微妙な生態的地位に応じてさまざまな種が適応放散してくる素地ができたのだ。実際、その結果カモ、ガン、ハクチョウといった基本設計は共通だが少しずつ違うグループが生まれている。つまり、カモの祖先がカモ類としての基本的な特徴を獲得したことで進化の可能性が広がり、多くの種が分かれてくる。これも適応放散の一つのあり方として見て取れる。

 このことはより大きなグループにも当てはまる。いわゆる小鳥と呼ばれる形態を持つ鳥は、9000種ほどいる鳥類の中で4000〜5000種を占め、森林の樹木の枝の間を生活空間にしている。彼らが進化してきた過程は、地球上に被子植物が大進化してきた時代のなかにあり、同時に被子植物進化に伴い昆虫が繁栄してきた時期である。その被子植物の発達、昆虫の発達と共進化をなして、適応放散をし、種の大集団を形成してきたのである。

 この種分化、適応放散は爬虫類や哺乳類の中にも現れている。さらには鳥類という一つの生物分類(綱)に属する生物種全体が、共通の祖先から適応放散してきた結果、多様な形態、習性を持つようになったということも可能である。

 このようにみてくると、地球上のすべての生物は、生命が発生し長い年月の中で次々に異なる生活空間、食物を利用するようになり形態を変えていくことで、いわば地球全体が適応放散した結果生じた産物であるとみなせることがわかる。それぞれの種が異なる生態的地位にいるからこそ、地球上で多くの種の共存が可能になるのである。

 これが多様な種が存在する理由である。

3 種は専門家である

 大切なことは、私たちは構造が簡単なゾウリムシ、アメーバなどは、哺乳類や鳥類に比べ、いわゆる下等な生物であると考えているが、生きる方法という点では高等も下等もない、いう認識である。個々の生物種はみな、異なった生活空間、食物を利用しそれに効率のよい習性、体のつくりを備えていて、いわばその道の専門家である。ライオンの生活はキリンにはできず、その逆もまた不可能である。ゾウリムシはゾウリムシとして、カニはカニとしての生活を営み、その限りでは他の生物よりはるかに巧みに生きている。ヒトが万物の霊長だと豪語したところで、キリンのような暮らし方はできないし、ゾウリムシのような暮らしもできないのである。このように一つ一つの種は異なる専門家として自然の中で位置付けられている。そこに生物の多様性の根本的な意味があるのである。

 地球は宇宙の中でガラパゴスのような小さな島として捉えられ、その島で生命が誕生し、形状、習性を種々に変化させ大規模な適応放散を繰り返してきた結果、今日見られるような多様な生物の世界が現前している。そしてそれぞれの種が異なる専門家であることで、他の生物と共存し繋がりを形成し暮らしている。

  
3 生物の繋がりと保全の意味
 生物の繋がりは、植物、草食の動物、数段階の肉食の動物がいて、また、それらの遺骸、排泄物を分解する細菌や菌類などの分解者がいて再び植物の養分となる、という基本的な仕組みがあり、物質が循環するシステムとなっている。地域毎にさまざまな生物種どうしの繋がりが存在する生態系が機能しているが、地球全体を考えても完結したシステム、生態系(エコシステム)を構成している。

 現在生物多様性の保全が問題になっているが、私たちは、多様な生物が複雑に絡み合う非常に精巧なシステムの至る ところで、一つ一つの繋がりを切断しているのである。個々の繋がりはあまり影響があるようにはみえない。シジュウカラと昆虫との繋がりを断ち切ったとしても、離れた人間の生活には何らの支障ももたらさないだろう。地球全体のシステムへの影響も微々たるものだろう。ゾウやアホウドリがいなくなっても問題は起こらないかもしれない。しかし、どんどん繋がりを切っていけば、ある時点までは耐えられるけれども、恐らくシステムとしての臨界点がどこかにあり、必ずシステムが崩壊すると考えられる。そこに多様性保全の大きな意味がある。

 生態系の一部として私たちは存在し、システムが崩壊しては生きられない。生物の繋がりを切断し続けることは危険であるという認識が必要になる。

 地球上には湿原、照葉樹林、高山など、異なる多様な環境が存在し、それぞれに違った生物群が異なる構成をなして存在している。遠く離れた生態系は別々に成り立っているわけではなく、水や空気によって、また、渡り鳥によっても繋がっている。渡り鳥は立ち寄る複数の生態系でそれぞれ一定の役割を果たしているので、一つの地域の自然で問題が起こると、繋がった他の地域でも影響が現れる。日本の干潟を破壊することは日本だけの問題ではあり得ない。

 生物多様性の保全とは、アフリカゾウやトキを保護することでもあるが、それだけにとどまらず、「人間の将来にわたる存在を保全する」ことに直結した意味を持つということが示唆されるだろう。

  
4 講義後のディスカッションより
Q 一つの種、例えばトキに莫大な資金を使うよりも、多様性を保全するという目的からは他の生物に広くかけたほうが適切なのではないか。

A そうあるべきであるが、保全には多分に社会的政治的な要素が含まれている。予算を獲得するとき、大蔵省が生物多様性について深い認識のない場合、トキなどの社会的にインパクトのある種をターゲットにし、その予算の中で社会に呼びかけたり他の種まで保全する次のステップを踏み出していく、ということをしている。必ずしも科学的に判断基準に基づいて優先順位が決定される状況にはないというのが実情なのである。

Q 絶対的な保護か、人が入ることも可能な状態におく保全かどちらをとるべきなのか。

A 状況に応じて多様な在り方があっていいと考えている。もし人間が入ることでマイナスのインパクトがあり絶滅の可能性がある場合は、完全に遮断すべきだが、そうでないときは観察することを認めたり、経済効果もあるならば、歓迎されていい。また、人間も、伝統的に土地で生活している人と外部からの観光者は区別して考えるべきだろう。原則的にはオフリミットの対象になるのは観光客等と考えるべきである。
 日本の保全の問題点は、必ず土木、建築が動くという点である。肝心の保護地域が疎かになってしまう。何が大切かをよく考えてほしい。

Q 欧米で保全活動をすべきか、日本に残り改善していったほうがいいのか。

 若い人には日本だけにとどまらず、いろいろな経験をしてもらいたい。日本の学生は短い期間で効率よく単位を取りいいところに就職しようとする。しかしほとんど重要な経験をしないで重要な職に就いてしまう。海外では大学生はいろいろな活動をしている。さまざまな生き方や状況を経験することは非常に大切である。それができるのは学生時代だけだろう。

  
メニュー
第1回 第2回 第3回 第4回
第5回 第6回 第7回 第8回
第9回 第10回 第11回 第12回
テーマ講義「環境の世紀 未来への布石V」