@.なぜ谷津干潟は保存されたのか?


<東京湾沿岸の浅瀬埋め立てへ>

東京湾の浅瀬を埋め立て工場を誘致し、県民所得の向上を目指す。地元の漁師は当初大反対。しかし高額の補償金を目にし、賛成派が徐々に増えていく。

その後高度経済成長の波に乗り造成地計画は拡大の一途

1970年、最後に残された市川から稲毛までの海岸線25キロの埋め立て計画が発表。

1971年、15000ヘクタールの埋め立て計画総面積が発表←東京ドーム3200倍の面積。



<長方形に残された干潟(谷津干潟)>

しかしあの長方形の干潟(谷津干潟)は戦前に内務省が運河建設のために買い上げた土地。戦後は大蔵省のものになっていた。→県は埋め立てるわけにはいかず。
反対運動によって残されたものではなかった!

県は大蔵省に対し払い下げを強く要求。習志野市も埋め立て賛成。

地元町会も、この時代になると埋め立てに賛成。←干潟に捨てられた大量のゴミのせいで、風が吹くと悪臭が広範囲に広がる。よって、早く埋め立ててほしいと願う近隣住民が多かった。



<森田三郎 登場>

1974 森田三郎が谷津干潟でのごみ拾いを開始

『たった一人で、 一周3.5kmにも及ぶ長方形の護岸の前にうずたかく積み上げられたゴミに立ち向かう決意をした青年がいました。ふるさとの海“ふかんど”を残したい、ただその一心で
森田三郎 29歳の冬。新聞配達の合間をぬって、市川市からバイクでゴミ拾いに通い始めた青年に、好意的な目を向ける人はほとんどいませんでした。悪臭に悩まされ、早期埋め立てを望んでいた地元住民の中には、彼をよそ者呼ばわりし、目の前でゴミを捨てて行く者までいます。そして行政には干潟のゴミの引き取りを拒否される。そんな状況のなか、たった一人で谷津干潟愛護研究会を設立し、雨の日も雪の日もゴミ拾いを続けました。』 谷津干潟友の会HPより引用(一部改)


しかし、当初埋め立ての方針は変わらず
市、国、県ともに、埋め立て方針を貫く姿勢。


その後十年間にわたり、行政や地元住民と森田三郎をはじめとする谷津干潟保存団体との戦いはつづく。

森田三郎がやったこと

・護岸に干潟保存を訴える看板を建てる
・干潟保存を訴える車
・干潟で拾った流木でベンチを作ったり、谷津干潟友の会とともに葦小屋や水上観察舎をつくったりするなど、干潟と人間がふれあえる施設を作り、干潟の大切さを訴える。
・記憶をたよりに、昔の谷津干潟とそこでの遊び方を絵にまとめる



<谷津干潟保存へ>

『森田三郎がひとりでゴミを拾い始めて、数年が過ぎようとしていた頃でした。彼の情熱に心をうごかされた地元の主婦が、ついに三郎にゴミ拾いの手伝いを申し出ました。
それから徐々に支援者の輪が広がり始め、多くの市民が参加しての谷津干潟クリ?ン作戦の開催、主婦を中心とした谷津干潟環境美化委員会の設立、森田三郎の支援者・ゴミ拾いの仲間達による谷津干潟友の会のPR活動などをとおして干潟保存の気運が高まり、ついに市による埋め立ての方針が撤回されるに至ったのです。』 谷津干潟友の会HPより引用(一部改)


1984年 谷津干潟を自然干潟サンクチュアリとする計画が発表される。

※『サンクチュアリは、第一に野生鳥獣の生息地の保全を目的とした場所です。また、保全だけでなく、訪れた方がそこの自然を直接体験する場所でもあります。レンジャーと呼ばれる専門の職員がいて、保全のための調査や環境の管理、自然体験の手助けなどの活動を行います。また、サンクチュアリにはネイチャーセンターと呼ぶ拠点施設があり、レンジャーのさまざまな活動の拠点であり、また来訪者の方の情報の提供や地域の方々の活動の拠点でもあります』  
WILD BIRD SOCIETY OF JAPAN のHPより引用


1988年 国設鳥獣保護区特別地区に指定される。



参考文献

本田カヨ子『わが青春の谷津干潟』(崙書房、1993)

松下竜一『どろんこサブウ』(講談社、1990)




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