第8回講義内容
6月21日
「環境社会科学の基礎」
講義内容
<目次>
管理者がはっきりしていないと、資源が枯渇するまで、とり続けてしまう
(例えば、公海や共有の牧草地など)
共有地には2種類
不特定多数の人が使える共有地
ハーディンの「コモンズの悲劇」は、この共有地について
使用できる人が限られている共有地(入会地)
直接、コモンズの悲劇は当てはまらない
入会地、入浜権、村八分
何故、後者の共有地については、持続可能なルールができるのか
繰り返しゲームの応用(経済学者はゲーム理論で説明しようとした)
牧草地を10人で共有しているとして、皆、羊の所有数は同じ
ある1人が1頭増やす
(1頭あたりの取り分は減るが、その人にとっては合計として得)
他の人も損しないように増やす
こうすると、1頭あたりの取り分は激減し、皆の首を絞めることに
1頭あたりの取り分が減ったため、必然的に羊の数は減る
こういうことを歴史的に繰り返すうちに、ルールが根付いていく
(景気循環のような感じ)
これは、環境問題にも応用可能かも
ただし、実際に当てはまるかどうかは、条件の違いから割り引いて考える必要
外部不経済の内部化とは
もともと値段の付いていない資源(空気など)についてどう考えるかという議論
内部経済………自分で投資 → 自分に見返り(利益)
外部経済………自分の周りの環境の変化 → 自分に見返り(利益)
内部不経済……自分でやったこと → 自分に不利益(損失)
外部不経済……自分でやったこと → 自分の周りの環境が不利益(損失)
これらの概念は、A.マーシャルやA.ピグー(→厚生経済学)が考えた
私的限界純生産物
……主体の追加的な投資によって、直接主体に帰属する効用の価値部分
社会的限界純生産物
……主体の追加的な投資によって、社会全体に帰属する効用の価値部分
私的限界純生産物 < 社会的限界純生産物 → 外部経済の発生
私的限界純生産物 > 社会的限界純生産物 → 外部不経済の発生
この議論をするためには、社会的限界純生産物を数値化する必要がある
数値化に関しては、政府の判断(=住民の総意)が大いに関連してくる
反論:1人1人の効用の考え方が違うから、全体として見て意味があるのか
むしろ、1人1人の効用の正負を調べることが必要では
例えば、閑静な住宅地の中にパチンコ店ができたとする
そのため、地域住民の1人1人の効用は、ほとんど負になる
しかし、地域社会全体で見ると違うかも知れない(むしろ正かも)
もし出店を防げなかったとして、被害を穴埋めするには、
どれたけの補償(金)が必要か?(この額が環境価値)
(上は社会的限界純生産物の算出方法は一例 他にもいろいろある)
社会的費用について
住民の効用をどう算出するか
指標として、
公共財政および国家予算の既存の支出パターン(A.カップ)
政府の方針が決まっていく過程に関係してくる草の根ネットワークや
直接民主主義は、住民の効用と大きく関連しているといえる
世論投票や標本調査による民意の調査
例えば公害に対してどういう対策をとるか ― 人々の効用の表れ
環境そのものの価値をどう計算するのか
地代論の応用
土地の値段とはどう決まるか?
地主は、土地を人に貸す → 地代から土地の価値が出てくる
土地からの収入=地代を基準として、その時の利子率の逆数をかける
地主にとって、土地は利子を産む資産と置き換え可能
土地を維持管理する費用に関連
コモンズや景観の貨幣的価値として、維持管理する費用×利子率の逆数が関連
環境税を考えるとき、環境価値は維持管理するコストから算出
税金をかけるには、一般化(価格を付けること)が必要
(カップの理論+ピグーの理論→ピグー的租税)
人間の経済には、2つの側面を含んでいる
形式的な側面……………金儲けと節約の部分
実体=実在的な側面……基本的な衣食住
レジュメのP19図3参照
有機的過程……農業
無機的過程……工業
この2つを分けて考える必要
果たして、生産過程で出た廃棄物は、分解されるのだろうか?
プラスチックなどは、「分解者」(微生物)に渡らない
どうやって廃棄するのか
形式的な経済で見ると、実在的な経済とは違う
たとえば、アイヌと森の関係
アイヌは、採った木の実をわざわざこぼしながら、家に持って帰る
(こぼした木の実→いずれ新しい木→木の実→彼らの子孫の糧)
→実在的な経済では利益
一方、商人が来て、残らず採ったとする
取り尽くしても、また他の場所に移るから、彼らは困らない
→形式的な経済では利益
以上の話は、資本主義に限った話ではない
むしろ、社会主義国のほうが、工業を優先したため、形式的な経済の面が強い
エントロピーの説明
(杉本大一郎氏「エントロピー入門」(中公新書)P34参照)
閉鎖系が、部分系1(温度T1)と部分系2(温度T2)に分かれている
部分系1から、部分系2へ、熱dQ移動( T1 > T2 )
T1 > T2
dQ/T1 < dQ/T2
(微小量なので、T1、T2はそのままとする)
発生したエントロピーは、
dS = dQ/T1 - dQ/T2 > 0
この閉鎖系は、温度差によって非平衡状態を保っていると言える
(平衡状態になったら、部分系1と部分系2が合併してしまう)
地球についても、以上のエントロピーの考え方が同じように当てはまる
地球という開放系
日射 → (地球) → 放射
地球内部が、いくつもの部分系に分かれている
これは、水の循環で支えられている
(もし、水がなかったら、火星のように、一様な状態になる)
環境破壊は、平衡状態にしてしまうように、システムを壊しているのでは
(レジュメ P149図3、P19図3参照)
以上から、砂漠化はエントロピー論からも意味づけることができる
環境問題は、部分系を隔てている区切りを取っているということ
よって
社会的費用の実体的価値=エントロピー処理能力
と考えることができる
(エントロピー論で何でも解決できるとは思っていない)
(既に時間を超過していたため、この章に関しては軽く触れた程度でした)
(詳細は、事後勉強会をどうぞ)
今までは企業=悪者
しかし、今は企業も環境問題に取り組むようになってきている
企業が積極的に取り組むようになるためには、
マーケット自体を中から作り替える必要がある
(生協運動や産直運動、リサイクル産業など)
企業の問題もあるといっても、環境問題の中心となるのは地域の中で生活していく生活者
具体的な生活者として、自分自身をどこまで認識できるか
- (Q)
- 共有地の悲劇は、その共有地を不特定多数が利用者する場合に起こり、限られた人が利用する場合は起こらないと聞いたが、どのくらいの規模が、「限られた人」として妥当なのか?
また、どこまでをコミュニティとして認識できるのか?
それは構成対象によって変わってくるのか?
- (A)
- 大気汚染がいい例
多層あるレベルのどこから、話を始めるか
僕としては、顔の見えるレベルでの直接規制から始めるのがいいと思う
コミュニティの下のレベルの合意が積み上げられて、だんだん上のレベルの合意になっていくのでは
(コミュニティ、自治体、国、国際協力、……)
(答えになってないかも知れないが)
- (学生)
- 現在の状況で、環境対策を企業がやらなかったらどうなるか?
- (丸山先生)
- 現在では、「環境対策をやっている」というポーズがないと評判が悪くなる
それはさておき、炭素税が導入されたら、そうしないと、つまづく
その中間の段階では、草の根市民運動が、企業に対する圧力・批判を行うだろう
もはや、コスト0とは思っていない
最近、環境対策をポジティブに捉える企業も出てきている
こういう対策で、企業単位ではなく、いくつかの企業でサイクルを組むようにやった場合、大きな効果が出てくる(例えば東北のゼロ・エミッション計画、詳細については、7月5日の須藤先生の回)
そういった動きが出てくると、積極的に動く企業が出てくる
- (学生)
- 米国では、定量分析でないと認めない
環境低負荷を定量分析可能か?
- (丸山先生)
- 廃棄物コストでわずかに出てくる
デポジット化の数量化の議論もある
しかし、いずれも見えるところ
景観価値の数量化などはまだまだ
当事者が主体
- (学生)
- 社会的費用の数量化として、エントロピーによる定量化(まだできないが)を用いても、あまり当てはまらないのでは?
- (丸山先生)
- 直接エントロピーで結びつけるわけではなく、熱の出入りを判断の基準とすることができる(要するに、理解するときの基礎理論として)
むしろ、エントロピー理論を通して、非平衡状態の重要性が分かることが大事
また、エントロピー概念を使うと、生態系の入れ子構造が説明できる(社会システムも、その中に含まれる)
そういった入れ子構造の中で、社会システムと生態系が対立している場合は、社会システムの首を絞めることになるだろう
しかし、そういったものを解消しようとして、生産力を下げると、個人の自由(富の享受)と規制とのジレンマが出てきて、難しい
- (学生)
- 繰り返しゲームの応用というが、試行錯誤の段階も実際に応用するということか?
- (丸山先生)
- 試行錯誤が、人間の知恵を豊かにする
環境税の税率を変動する上でも同じような試行錯誤があるのでは(ゲーム論上で説明できるように)
- (学生)
- エントロピーの流れを人間が乱しているというが、具体的な例を挙げて欲しい
- (丸山先生)
- 以下の2種類の例が挙げられる
1. 砂漠化減少は、人間が水循環を切ったせいである
そのため、昼間に熱がもたらされると、一気に温度が上がり、夜は一気に温度が下がる
水がなくなると生命活動ができなくなる
2. 食物連鎖を切っている
有害物質の蓄積のために、生物内のエントロピーの廃棄がうまくいかなくなる
高いエントロピーを捨てることが、生命活動である
- (学生)
- 生活者とは何か?(定義して欲しい)
- (丸山先生)
- 生活者とは、単なる消費者ではなく、衣食住を営んでいる人、要するに労働をしながら、消費をしている人々をいう(その意味では、消費だけする学生は、偏った生活者といえるだろう)
生活者が住む世界を生活世界といい、これは等身大の社会である
現在の地方の大字(おおあざ)や集落がこれにちょうど適合する
一方、都市に住んでいる人は、自分の居住地と勤務地およびそういった空間を線でつなぐ通勤空間が、生活世界といえる(要するにとびとびになっている、この生活世界がとびとびさになっているということは、生活水準と関連する)
豊かさは、生活空間のゆとりといえる(家庭で過ごす時間が少ない、通勤地獄などでわかり、この意味で、ドイツは日本より豊かさがいい)
- (学生)
- それは実体的な側面なのか
- (丸山先生)
- そう
- (学生)
- それでは、形式的な側面はよくないから、地域経済に移った方がいいということなのか
- (丸山先生)
- こういったより実体的な経済に移るには、市場を支えている条件が変化する必要がある(環境税など)
これ(条件)をもたらすのは、地域社会であり、地域経済につながる
モノの流れを地域中心にするのであって、自給自足という閉じた経済にするのではない
- (学生)
- それでは、先進国の資源輸入は、実体的にも有利になるのか?
(もちろん、資源を持ち出される途上国にとっては、実体的には不利だろうが)
- (丸山先生)
- しかし、先進国ではゴミが溜まる
実際、今、それが問題になってきている
(もっとも、その廃棄物も途上国に追いやってしまえば、何とも言えないが、そういった地域エゴがない状態では)
実体的な経済とは、経済の流れを生態系に乗せるというこ
地域の経済を重視することとと地域エゴとは別
- (学生)
- 経済の発展状況は分業の度合いで分かるという
(地域ごとに何か作るのではなく)地域ごとに特化した方がいいのでは?
- (丸山先生)
- モノづくりは、素材生産部門と最終消費財生産部門に分けて考えることができる
素材生産部門は、地域的に分かれる可能性がある(要するに特化される)
一方、最終消費財生産部門は、地域住民に密着していないとダメ(1970年代に、大量生産→大量消費は終わり、現在では、多品種少量生産が主流になってきている)
リサイクル産業も、そういった消費財を回収するので、地域密着型といえる
(しかし、現在では、中小企業に若者が就職せず、生産はむしろ大企業にシフトしつつあるが)
こう行った地域経済は、消費者を巻き込んで作っていくものであり、必ずしも規模の経済は働かない
収益の上げ方としては、2通りある
1. は規模の経済で、だんだん拡大していくというやり方(成長型)
2. は地域経済の中で、自分の位置づけを維持していく努力によってもたらされるもの(成熟型)
地域でマーケットを作った上で、大きな(上の階層の)マーケットにつなげていく
- (丸山先生)
- (生活者の話を始める前に、学生に対して)
豊かさって何?
- (学生)
- 金銭的な収入と時間的な余裕
金銭的な収入がなければ得られない豊かさもある
一方、時間的な余裕がなければ、豊かさを享受することができない
もっとも、豊かさの定義は自分でも曖昧だが
- (丸山先生)
- 金で自然を維持するとして、自分の収入からその金が引かれると、金が減ったと考えるか?、それとも自然が増えたと考えるか?
僕自身は、所得倍増計画の1960年代に義務教育を受けたのだが、周りの環境は当たり前だと思っていた
僕自身は、周りの環境が変わって豊かになったとは思っていない
一方で、戦争を生き抜いた父親の世代は、物に対する欲求が強く、物質的な豊かさを維持しなきゃという考えは強い
自然に親しむ場合、貧しい百姓で農業のイメージではなく、趣味で菜園をやる程度の感覚が必要
趣味として自然に親しむようになり、金銭的収入が少なくても豊かさを実感できるようになっていくのでは、というのが僕の予感
- (学生)
- 今日の講義で話しきれなかった「3. 持続可能な社会経済システム」について話して欲しい
- (丸山先生)
既に、この事後勉強会の中で話した
今日の講義は、ほとんど地域レベルでやった
一方、今話題になっているのは、地球環境問題で、国際協力、CO2排出規制、排出権取引市場といった話
排出権の考え方は、
まず途上国に排出権をたくさん与える
総量規制に伴い、やがて、先進国が買い取るようになる
そうすると、途上国も排出を減らすために、売った金で抑制技術を導入する
といったものである
これは、技術移転の促進になる
もし、チャリティーでやったら(いわゆる普通の援助)、市場原理が作動しないだろう
それが悪いとは思わないが、そういうやり方で解決できない部分もあるというのが、僕の考え
生活者が生活の中で環境を考える
そういって、住民が声を上げていくときの理論が、ピグーやカップの理論やエントロピーの概念である
身の回りの環境問題を捉える上で、しかし、単に身の回りだけでは地球環境につながらない
産業連関表で見ると、どこが発生源だか分かってくる
それが見えるレベルは、生活者のレベルである
ここからのアプローチができるのではと、現在考えているところ
- (学生)
- 持続可能な社会経済システムというが、そのシステムへの移行はスムーズに行くのか?
- (丸山先生)
- なるべくスムーズにやらないといけないし、そうしないと、企業が変わらない
徐々に、魅力のあるマーケットを作っていき、そうすると、企業もそれに付いてきて、変わってくる
- (学生)
- そうすると、地球規模でないといけないが、現在の動きは?
- (丸山先生)
- 自動車産業では、中でドラスティックに廃棄物を出さないようなシステムに変えつつある
例えば、ドイツのフォルクス・ワーゲン
最終的には採算が問題だが、この場合、大企業は採算を取れると踏んだようだ
- (学生)
- 可能性は高いのか?
- (丸山先生)
- 高いというか、そうしないといけなくなるだろう
トレンドになるまでに地球が持つかは問題だが
- 最後に簡単な質疑応答
- (学生)
- こういった環境姿勢の違いは、どこで出てくるのか?
- (丸山先生)
- 経営者の考え方の違い
- (学生)
- 環境問題と学問の違いとして、例えば僕がやっている化学を例に挙げた場合、
1. 化学の実験そのものが環境破壊を招いているのでは
2. 学問はオリジナリティを重視するが、環境問題の解決はオリジナリティというよりむしろ既存の策を実行すればよいといった感じである
こういった中で、学問と環境問題のどちらに重きを置くのか?
- (丸山先生)
- 僕がやっているのは、主流の経済学を壊してみたいということ(オリジナリティ)
僕の学問が実社会に役立つとすれば、それで企業が主流派の経済重視の姿勢が変われば良いという感じで、それを通して環境問題の解決につながっていくと思う
しかし、(学問研究者としてではなく)消費者としての限界は、ひしひしと感じている
- (学生)
- 実体的な経済と形式的な経済との違いをもう1度説明して欲しい
- (丸山先生)
- 両者は、対象自体にずれが生じている
重なる部分が、我々の意識するいわゆる経済であるといえる
重ならない部分で、実体的な経済にのみ属するのが、自給自足的な活動、物々交換など市場に現れない経済である
一方、形式的な経済にのみ属するのは、金融取引などである
- (学生)
- 生活者の概念は、地方でのみ成り立つように感じるが
- (丸山先生)
- 都市の住民のストレスは、生活者として成り立たないところから来ている
それを感じるところが、出発点(行動としては、リサイクル運動など)
- (学生)
- 先ほどの自動車産業の例は、EUの規制を見越しての行動であると考える方が自然なのでは
- (丸山先生)
- 確かに、そう
政府の規制(エコマークなど)と企業の関係については、山本良一氏著「地球を救うエコマテリアル革命」を参考図書として挙げたい
- (学生)
- 人々の行動はどうなのか?
- (丸山先生)
- 今度の検討課題である
文化・社会・歴史とも大きく関連する
- (学生)
- 環境価値を経済(社会的費用)に換算するというが、経済だけでは考えられないものもあるのでは
- (丸山先生)
- 環境破壊は、人間の経済活動が招いたもの
原因を変えるような方法が必要
その原因=経済活動に変化をもたらそうということで、経済を持ち出した
- (学生)
- ゲーム理論は、試行錯誤の後の収束点で落ちつく
しかし、今の現実の問題として、収束する前に、環境が破綻してしまうのでは
- (丸山先生)
- 今、まだ思考実験をやったことがない
コモンズは、強調ゲームになるということで、シミュレーションしてみた
実際は、もう少しゲーム理論の適応に、慎重にならないといけない
また、あくまでも実験であり、実際の歴史の中での入会の成立原因とは異なっているかも知れない
もう少し、勉強してみたい
- (学生)
- 今の経済を変える方策は分かった
しかし、変えるには、今の経済を把握する仕組みが必要
それについて教えて欲しい(産業連関表の話はあったが)
- (丸山先生)
- 実像をつかむためには、財政の中で、どういうところにお金を使っているかで分かってくる(国家や自治体;;ul の予算の中で、環境対策費や農業をどう捉えているか)
大枠で制度化するなら、公共経済を見ていくといい
(ありません)