京都大学文学部哲学科 加藤尚武
環境倫理学を考える上で、人間の社会やものの考え方で、見直すことが3点ある。
a 人間以外のものの権利の保証
b現代世代の繁栄だけでない、未来世代の生存の保証
c地球が有限であるということを経済・社会に組み込む
アメリカにおける環境倫理学と環境運動は大部分がaの主張であり、例えば、「生物の生存権」、「生物の訴訟の代理権」などだ。
本講では、まず以下に具体的に見直しを迫られる内容を列挙し、随時分析を行ってゆくこととする。
現在、自然環境が劣化している。この現象には温暖化問題も含む。温暖化が進行すると、食物連鎖は温度に依存しているので、食物連鎖が狂うかもしれないのである。この現象は後に述べる生物層の後退と言い換えてもいいかもしれない。
人為的原因(乱獲)が影響している。環境の劣化とも相関している部分と言えよう。
資源・鉱物は400年持たないという。化石燃料に限らず、資源・鉱物は非循環的・枯渇的使い方をしている。原子力発電が行われているが、ウラン資源も、試算によると40年しかもたない。枯渇型経済ではいつか全て枯渇してしまう。
a原子力委員会に参加して
現在、原子力委員会に参加して、放射性廃棄物の処理問題に関わっている。現在の議論では
・低レベル放射性廃棄物:
地下の浅いところに埋める。
・高レベル放射性廃棄物:
地下1000mに埋める。
現在の所、このようなことが議論されている。
この場合、「埋める」とは金属容器に入れて埋めるだけのことを意味している。埋めた後安全なのか、全くモニタリング(管理)できない。水漏れや内容物流出などについてモニタリングはしなくてはならないはずだ。
b安全宣言の不可能性
〜放射性廃棄物は完全にはなくならない〜
放射性廃棄物は完全にはなくならない。従って以下のような問題が出てくる。
・安全を何年間保証するか。
(例)100年間とする。
・金属容器の劣化をどう計算するべきか。
まず「安全宣言の不可能性」を私たちは認識しなければならない。近代科学(ニュートン:17世紀)は「1000年間」を経験していない。「1000年間」を何度も経験した上で言うのならよいが、「数百年間」しか知らない人間の現代文明が保証年を決定できるはずもないことは明らかだ。
継続的観測も100年程度である(温暖化の実証も、ハワイでの同一条件で17年間の調査を行った結果認められたが、データそのもので100年間以上のものはない)。また、阪神大震災から、建築の安全基準がすぐ変化し、50年以上も持続しそうにない。
「科学的に安全だ」と宣言したとしても、それが信用に足るのか。「安全」といっても、例えば移植を例にして、何例の個体例で「安全」といえるのか。安全性でも、類比的に見て安全というのと、1000年間やってみて安全というのは、意味と次元が全く異なる。このように考えると、「科学的に安全」と言ってもきわどいののではないのか。
c具体的方策について
実際に原子力発電の放射性廃棄物をどうすればよいのだろうか。
・核廃棄物を毎日監視する施設を設計し、徹底的 に管理する
・ロケットで宇宙に打ち出す
後者については、大気圏外に生物がいないかどうか、という問題に加え、ロケットの安全性が大問題である。ロケットが空中で爆発したら、収拾のつかない惨事となる。確立が低くてもとても危険なことである。もし実行するとするなら、もっと時間と技術投資が必要な方策である。
再燃料化という主張もある。通常、放射性廃棄物の半減期は2億年であるが、半減期の短い元素に変えて繰り返し使用するというの発想だ。
私の意見としては、1000年間の安全を想定するよりは、50年で技術開発し、その結果を還元するのがよいと考える。技術開発によって安全期間を1000年間から500年間に短縮できるのではないだろうか。そうすれば十分に投資に見合うと思う。しかし、これには経費が経済的負担であるという問題がある。
以上を総合して、安全管理、人間の文化に影響の少ない、砂漠のような場所で集中管理し、そのかわりに各国でコスト負担するのが良いと考える。各国でバラバラに管理するのは安全保障上も非常に危険であり、まとめて徹底管理するのがよい。
新聞記事によると、台湾が北朝鮮に原発の放射性低レベル廃棄物の処理を委託し、北朝鮮は82億円を要求し、このことに韓国がクレームをつけた。
北朝鮮の言い分は
「この取り決めは北朝鮮の自己決定の問題だ」
ということだ。それに対し、韓国は放射能の残存期間は1000年以上という長期であるのに対し、南北朝鮮の分断は数十年規模であるから、決定権を持つのは北朝鮮だけではなく、韓国も持つのだと主張する。
この問題を考えると、「当事者とは何か」が疑問となる。当事者は決定権を持ち、近代的にはそれは「自業自得の原理」に基づいている。
上記のような「近代の考え方」は次のようになる。
「脳死段階の臓器移植など、本人が認めたのだからよい、自分のことは自分が一番良く知っている」
この考え方は
「自由を認めよう、当人が認めれば愚行も許される」とも言い換えられようか。
北朝鮮の問題に戻る。以上のような北朝鮮の主張の中ではホッブズ「リヴァイアサン」のように、個人レベルの自己決定と国家レベルの自己決定が重なっているのである。ここでは国家レベルの自己決定が問題なのであり、個人の自己決定の倫理が国家の自己決定の倫理と重なっている。
しかし放射性廃棄物の危険性は千年以上に及ぶ。そこで、「誰が、どう決めればよいのか」ということ、つまり決定方法の適切性が問題となるなるのである。
ここで、決定方法に関して新島の「入会権問題」を例に検討してみよう。入会権は古い形での決定システムである。新島のおばあさんたちは
「土地は先祖代々のものだ。預かっているだけで、自分には決定権がない」
といっている。自分たちは土地を子孫に譲り渡すのが義務であり、今はバトンを持っているだけだと考えている。ここでは、決定権を持つ当人が
「自分は決定権を持っていない」
といってその権利を放棄している。
これはどういったことなのだろうか。
歴史的に検討してみると、昔の日本は、生態系や人口が安定していた。例えばそれは森林は森林のまま、農地は農地のままというようなかたちで維持・管理がなされいた。加えていわゆる「里山循環」の中で、廃棄物も循環的に処理していた。
(この循環系の維持には「生態系保持システム」が不可欠だった。)この土地利用形態は永遠にバトンタッチしていけば、それでよかったのである。
例えば江戸時代、岡山藩では農地開発の制限を行っていた。これは水田や神社の建立で森林を破壊したのが、洪水災害の原因と考えたためだ。つまり、同藩では森林保存を入れた形で経済管理を行ったのである。
このように見ていくと、生態系の変動だけでなく、そこにおける人間の意志決定のシステムが問題なのが分かる。
近代以前の日本のような世代間決定では、古い世代が新しい世代に対して決定権を持っていた。それに対して近代社会では「同世代間の同意」に基づいて決定をする。近代は「世代間倫理」を同世代間の同意形成に組み替えたのである。しかし、環境問題のように長期間の問題は現代世代だけでは決められない。
未来世代につけをまわすことに現代世代は反対しない。これは金を借りて旅行をして楽しみ、返すのは未来の人というのと同じだ。「さあみなさんどうですか」と賛否を聞いても、現代世代にとっては都合が良いので、誰も反対しない。
国債はまさにこのようなやりかたをしているものである。例えば建設国債によって公共事業をお越し、橋をつくったとしよう。この債務を負担するのは未来世代である。さらに、もし今後、
「国土開発の名で破壊を行った所へ、環境復原技術に投資して修復を行う」
ということが起こった場合、全く二重にむだな投資をしていることになる。結局、未来世代に発言権がないという構造ゆえに未来への負担が大きくなっている。世代間の通時的公平性が達成されていない。
20世紀の70年代までは、現代の繁栄に対して未来はもっと豊かになると思われていた。70年代になってはじめてローマクラブの「成長の限界」などに代表される反進歩主義が発生した。この議論では現代と未来はトレードオフの関係となる。
ちなみに、
「人間が本能的自動調整を壊したので、分業の必要が生じ自給自足ではなくなった」
とよく言われるが、古代物流史によると古代レベルでも自給自足ではなかったのである。
所有の主体は人間である。生物種としてのヒトが主体ということである。現在、臓器移植や安楽死の問題があるが、
「わたしの臓器は死んでも私のもの」
「生命は私のもの」
という考え方が基本的である。つまり、生命倫理学は所有の内容は変えたが、所有という枠組みは変えていない。
奄美のウサギに関して、自然物を主体とする裁判がおこった。日光の太郎杉訴訟では「公共財」として保存を決定した。「公共財」という所有のかたちはどのように位置づけられるのだろうか。
ある日本人の金持ちがゴッホの絵を買い、「死んだらいっしょに焼いてくれ」と遺言した。しかし所有者にはゴッホの絵を焼却する権利はない。ゴッホの絵は文化的価値がある人類共通の「公共財」であり、煮ても焼いても勝手というわけにはいかない。この時、誰が訴訟するかという問題がないわけではないが、公共財だから、たくさんの人間の所有物であるし、裁判でも勝てるだろう。
この「公共財」という考え方に対し、ヤンバルクイナやアマミノクロウサギなどを、それ自体を「権利の所有主体」と捉える新しい考え方がある。生物種の生存権そのものの価値を考えるのだ。
だが、そうしなくても人類の公共財という考え方でも保護はできる。生物種の生存権を主張しても意味がないのではないか。公共財保存は人類の義務であり、個人の所有権に優先する、というように古い考え方をしても自然保護はできる。
このように主張しているので、「保守派」ということになり、ディープエコロジストからは反論されている。
生物の権利といっても、人間と同等ではない。動物実験に動物の同意が必要などと言い出したら、実験は不可能になる。だが医療や薬の安全性のためには動物実験が必要だ。聞こえはいいが、人間の命に関わる「生物の生存権は人間の義務」と言っても、動物と人間は同等、というのは無理ではないだろうか。そういったものには人間とは違う基準を設ける区別が必要だと考える。つまり私は「生物の権利」を主張はするが、いわゆる「限界主義者」であり、「保守側」なのである。実際にはこのくらいのバランス感覚が適当なのだろうと考えている。 (本稿作成者 大竹史明)
・生態系保持システム 2
:ケネーの経済表のようなモデル的循環と理解されたい。