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研究者インタビュー
井上真




― 先生の最近の研究テーマは何ですか?

 東南アジアの5カ国(インドネシア、フィリピン、タイ、ラオス、ベトナム)を対象として参加型の森林管理の制度をもっといい形にするにはどうすればいいのだろうという戦略を提示する研究に関っています。これは地球環境戦略研究機関(IGES)が昨年度から実施している6つのプロジェクトのうちの一つである「森林保全プロジェクト」の研究です。このプロジェクトには4つのサブテーマ、すなわち構造分析、木材貿易、参加型森林管理、法的行政的手法、があるのですが、私はこのうち参加型森林チームのリーダをやっています。

 フィールドワークをやって、そこの地域の人々がどのように森とつきあっているか、どのように利用しているか、自分達でどのようなルールを作っているか、どのような経済的状況に置かれているか、コミュニティーの中でどのような社会組織が発達しているか、などについて調べます。要するに森と人間との関係にかかわる技術・経済・社会そして文化を、総合的に捉えるフィールドワークをやっています。

 一方で国の政策については、ここ数年間で参加型の森林管理制度の導入が進んでいます。しかし現状とのギャップが結構あって、そのギャップを埋めるためにはどうすればいいのかという政策提言がまずは重要です。ギャップとしては例えば、現状としては人々は森を自分達の慣習的な決まりにしたがって森を持続的に使っているにも関らず、政策体系の中では地域住民の森林利用が禁止されているというのがある。その前提にあるのは、地域住民は森を壊すという誤った認識です。このような事例の場合には何をしなくてはいけないかというと、まず地域住民の森林利用がサステイナブルということを証明しなくてはいけない。このような地道な作業の結果、政府に対してこの森林は地域住民に任せても大丈夫ですよという政策提言ができることになる。


― 具体的には住民がどのように利用しているのかを論文にするのですか?

 論文を書くだけでは学問の世界だけで終わってしまい、政策に反映される確立が極めて低くなってしまいます。ですから、IGESのプロジェクトでは研究成果をもとに5カ国でワークショップを行う予定です。このワークショップは政策対話(ポリシーダイアログ)のためという位置付けで、それぞれの国の政策実務担当者、学者、NGO、国際機関のスタッフ、そして各地域の先住民族のグループ代表などに参加を呼びかける予定です。ワークショップでは我々の案を発表して議論しますが、様々なステイクホルダー(利害関係者)が同じ席について対話をすること自体で影響力がでます。そこでの議論をもとにして政策提言案を修正し、最終的に日本で大規模なワークショップをやります。このワークショップには各国の参加型森林管理制度に関わる部局の長にも参加を呼びかける予定です。


― 国の政策担当者は積極的ですか?

 それはまだわかりませんね。そういうことはこれから準備していきますんで。でも各国とも参加型でやっているというポーズはとりたいわけですから、自国政策の良いPRの機会と考えて興味を示してくれるとは思いますね。ただそれが政策にとりこまれて法律とか政令を変えるというところまでいかないと意味がないわけでしょ。だからそういうのをチェックするという意味でNGOの人とか国際機関の人とかも一緒に呼ぶわけです。

 学問としてはそれぞれの研究者が学会とかで発表すればいいわけだけど、IGESの研究というのは最終的に政策に取り入れてもらうことを目標にしている。もちろん、そのためには学問的にもちゃんとした結果がでていないとだめなわけですが。

 私自身が森林政策学をやっているんで、政策学をやっているからには、研究者としての自己満足で研究をやってるのではなく、政策をいい方向に改善していくというのが最終的な目標になっていくわけです。そういう意味でも、このプロジェクトは研究に基づいた主張があって、政策に取り入れられていくという点で、私がもともと持っていた欲求を満たすものだなと思っています。


― 参加型森林管理というときの「参加」というのはどのような主体のことを言っているのですか?

 日本やアメリカの場合は「参加」というときはたいていが市民参加のことを指しています。例えば、知床とか白神山地などの自然保護に対して、離れた東京とかの人が参加するということになっているわけでしょ。ところが東南アジアとかで「参加」というときは、その地域に居住している地域住民の参加のこと言っています。今までは熱帯地域の森林管理というのは地域住民を締め出して、ここは企業に伐採権を与えたところだから、企業が利用するんですという風にやったわけです。しかしそれは実際は失敗しました。

 もともと森に頼りながら生活していた人々、すなわち地域住民を森から追い出すということは極端に言えば死になさいと言っているようなものです。もしそれをするのならば、別の雇用、生活の糧を見つけてやるべきなんだけど、そのような補償はなかったんです。

 森に住んでいる住民というのは熱帯地域の中でもっとも社会的にも経済的にも力の弱い層です。そのようなベーシックヒューマンニーズというものを満たせなくなりつつある人々の生活を保障しようという考え方から出発したわけで、多くの場合企業と対立するような関係になっていますね。これまで企業は政府から権利を得て森を住民から奪っていたという形になっていたわけです。これからは、住民の、住民による、住民のための森林管理となるべきです。企業も排除するのではないやりかたはあると思う。地域住民の集落との線引き、ゾーニングが必要だと思っています。 森林のほとんどは国有林です。しかし、国が直接管理することはできないから、伐採権や造林権を企業に与えているのです。ところが、実際は住民が管理しているのにかかわらず法的にはそれが認められていない場合もあります。まだまだこれからです。企業によって管理されている森の中の一部を地域住民による利用・管理に移そうと政策で決めたところなわけです。


― 熱帯林での管理とはどういうことをいうのでしょうか?

 大きくわけて2つの局面があります。1つは伐採の局面で、天然林からの択伐のことを指しますが、これはことごとく失敗しました。これが80年代の話です。90年代に入ってから管理の局面が変わって造林に変わりました。造林といってもユーカリとかアカシアなどの早く成長するパルプ用の木を植えることです。

 問題は何かというと、伐採の時は企業の伐採と地域住民はそれなりに折り合うことも可能でした。企業が欲しがる大きな木は、地域住民が森を使っているところにはあまりありませんし、法的には全部企業のものになっていても、企業と地域住民とでは利用する場所が違うことも多く、比較的折り合いはつけやすかったと思います。さらに伐採用の道路を使って地域の住民は企業による伐採跡地で焼畑農業をやることもできました。

 ところが造林の局面においてあちこちで紛争が頻発しています。なぜかというと、企業にとってはなるべく広い面積を対象として植林したいわけです。それがどこかというと、地域住民が焼畑に使っていた土地なのです。そこに樹木が植えられてしまうわけです。だから、地域住民は畑ができない。紛争が頻発するわけですよ。


― 環境保護というか植林が、地域住民の生活を圧迫しているというのは、とても意外でした。

 そうです。まさにそうなんです。日本では「植林=いいこと」でしょ。それは確かにそうだけど、2つの面で注意が必要だと思います。1つは今言った土地の紛争ね。つまり社会的な問題です。もう1つは生態系の問題です。天然の二次林があるところを伐採して一斉に木を植える場合が多いので、生態系としてみてもよくない。しかし経済的にみればそちらのほうがいい。これに関しても、パルプ用材を作るために植林をする場所とそうでない場所とを分けるために地域の実情に則した判断をすることが熱帯林の政策担当者は必要なことだと思っています。


― いわゆる環境学という概念についてはどう思われますか?

 それは僕も非常に興味もっているところです。環境学には、すでに生じている問題への対策を意図して行う研究と、問題として起こっていなくても人間を取り巻く環境そのものをより深く理解するためにおこなう研究の2つがあると思っています。いずれにせよ、学際的なアプローチが必要です。この点、地域研究と環境学というのは手法としては全く同じだと思っています。

 学問というのは一定の前提および制約条件のもとで成り立っているものだから、見える局面というのが限られています。たこ壺のような限られた見方では環境問題は解決できないし、人間をめぐる環境の本当の理解にもつながらないと考えています。

 とはいっても学際的なアプローチというのはなかなか難しいというのが多くの人の悩みでしょう。やり方としては2つあると思っています。一つはそれぞれのディシプリンつまり専門的な学問分野をやっている人が束になってかかるやりかた。もう一つは個人の研究者がもともと学際的なものを目指すやり方があると思います。今後の新しい環境学がどっちを目指すべきかというと2番目だと思う。1番目だと、色々な人が集まっても、それは環境問題に対する共同研究であって、新たな展開はなかなか難しいと思います。

これからは環境学というのは必要だと思うし、学問分野であるならば環境学なりの手法・方法論が確立されるべきでしょう。それはどういうことかというと一人の研究者が学際的な手法を身につけるということです。私のやっている地域研究というのは、対象が森ということで地域研究一般からすると範囲は狭まるわけだけど、その「森林地域研究」というものは、森は人間の環境であるからまさに「森林環境学」なわけです。という意味で、私は森林「環境学」をやっているとも言えます。


― 大学の中で研究者になるためには、何らかのディシプリンを身につけなくてはいけないようになっていますが、どうすればいいとお考えですか?

 博士号(ドクター)をとるということは、その分野の免許書をとるということだから、研究者として必要ですよね。だからある1つの「〜論」という議論の中で博士論文を書かなければなりません。でも1つの学問の中で「〜論」というのが20個あったとして、ある専門分野(ディシップリン)の研究者はそれらを全部やりますか? やらないでしょ。自分の研究テーマに関わる「〜論」のみが論文として活用されるわけです。一方で一人の人間が使える道具、マスターできる理論(あるいは「〜論」)には上限があると思います。スーパーマンでない限り、例えば5個という限界があるわけです。さて、使える道具というのはその分野(「〜論」)の中で認められる論文を書けるということですから、一定の水準に達することが求められます。

 自分が問題だと思っているものを理解するために選んでくる道具が、1つの学問分野(例えば経済学)から5個選ぶのが通常の研究者です。これに対して、例えば社会学から2個、経済学から1個、人類学から1個、生態学から1個とってくるのが学際的アプローチを目指す環境学の研究者です。一つの学問をやって、その分野に含まれる「〜論」を全部マスターするまで他の分野を勉強してはいけないというわけではないのです。


― 温暖化問題のようにフィールドの見えにくいものに対してはどうすればいいのですか?

 僕自身はフィールドがあることを前提で考えているからね。でも考え方は同じで問題に対して使える道具は限られるから、この問題に対して使うのはこの分野という風になるでしょう。しかしあくまでも、道具が先にありきということではなく、問題が先にありきというのが環境学で必要だと思うんですよ。問題を理解する、解決するというところになってはじめてツールの必要性がでてきます。その問題を探すために例えば現場に出てみる、現場がなければ本を読んでみる。要するに何が問題かを見つける自分のセンスを磨くというのがすべてに優先して重要だと思っています。


― 具体的には大学の間はどうすればいいのですか?

 1・2年生の教養のときに色々なディシプリンの基本をやるわけでしょ。経済学から社会学から自然科学から。理想的に言えば、それをちゃんとやっておくことですね。自分は全然やってなかったから、えらそうなことは言えませんが、ハハハ・・・。しかも、そのとき何に気をつけながら一般教養をやるかというと、細かいテクニックでなくて、その学問の前提になっているのは何かとか、学問としての方法は何かとか、学問としての考え方は何かなど、そういう基本的なことを考えながら勉強すると絶対役立つでしょう。そうすると、この側面はこの学問分野で、あの側面はこれだなというのが分かるようになる。

 もうひとつ言いたいのは世の中に出るということ。現場に出ると言ってもいいんだけど。自分で世の中に出て何が矛盾しているのか何が問題なのか、自分で探すということが重要じゃないかな。これができれば細かい勉強は4年生までしなくていいとさえ思います。

 例えば、森林研究ならば、一般的な問題から森林に絞るのに2年。その中でさらに何が問題なのかを絞るのに2年。そこで何か強いエネルギー、インセンティブをもって大学院に進学すればもうバッチシという感じです。


― 研究のしかたで、一度専門に入ってある程度いってから他の分野へも開くというT字型というのがありますが、どう思いますか。

 それだとやっはり目指すべき環境学にならないでしょうね。ドクターまで一つのディシプリンでやるとそこから離れられなくなるんですよね。例えば自分が社会学者だと思っていると、あとで経済学の理論や方法が必要だと思った場合、「これは経済学に任せましょう」という感じになってしまうのではないでしょうか。自分はあくまでも環境学をやっている人間だ、学際的な研究をするんだと思っていればこそ、そのあと自分でやる気になるわけです。

 ドクター論文も援用する理論(あるいは「〜論」)は一つではなく、二つだってあり得るわけです。社会学のなかの「〜論」と経済学のなかの「〜論」という二本立てで書くとい方法もある。くどいようですが、ディシプリンの中の全部の理論を博士論文で使用するなんてありえません。しかし、博士論文を書くまではある程度T字で行くのが現実的なのは確かです。しかし、それはあくまでも学際的な環境学をやるなかで必要な1つか2つの「〜論」を柱にするという意味でのT字なのです。だから、その後もしも別の「〜論」が必要になった時点でそれをマスターすることになります。


― 環境問題が解決した社会のキーワードは?

 1つはローカルな思想、固有性、地域。閉じていないでグローバルに開かれた地域性。地域があくまでも主役だけど閉鎖的ではなくグローバルな価値観、グローバルな基準につながっていること。もう1つは住民・市民が主役だということ。社会的な公正の話とか、民主主義とか。もう1つは持続性でしょうね。


― 都市部におけるローカルというのはなんですか?

 そこに住んでいる人がどういう環境、都市環境を望んでいるかがもとになるんじゃないでしょうか。都市でも農村でも住んでいる人がどうしたいかがポイントです。たとえば騒音があっても交通の便がよい方がいいとか、古い建物を景観として残したいとか、逆に近代的な建物にしたいとか。そういうのはまず地域の考えがあって、それとともに国のレベルでの基準とかを決めることも必要だと思いますね。例えば、熱帯地域なんかで、地域住民はみんなゴルフ場の建設を望んでいるのだけど、そこが貴重な生態系であった場合などに、国の役割とかグローバルな基準が重要になってきます。 社会のありかたについて僕は考え方は4つあると思う。1番目は全て自由にすること。2番目は自由にするけど、セーフティーネットでそれをカバーするというもの。3番目は、あらかじめ皆で合意できるものを決めておいてそれを確保する。これは環境でも老人福祉でも同じ。あらかじめ確保しておいてさらに余力のある人は自己責任で自由にやりましょうという考え方。4つ目なみんな平等にやりましょうというもの。

 僕は環境問題を考えると3番目のような社会のあり方が最善だと思います。これだけは必要だよというものをみんなで合意してそれを死守する。そしてだからって競争がいけないんじゃなくてそれを前提として上でどんどん競争しようというもの。これは安心感のある社会の中での自由(競争)社会です。一方で、緊張感・不安感のある自由競争をまず重視し、次に敗者を最低限救おうというのが2番目でしょ。ですから、結果的には似ているようだけど、理念としては根本的に異なるわけです。


― 最低限のラインというのはどういう指標で決めるのですか。

 どういう風になるのでしょう。それは合意の問題でしょうね。健康被害とかは数値ででるけど、大部分の場合は自然科学的に数値ででないでしょ。たとえば騒音や大気汚染がどこまで許容されるべきかというのは自然科学的にでるわけじゃないですからね。森林が国土の何%を占めているべきかというのも社会的に決めるべきものです。


― 先生が環境問題、森林問題に関ろうと思った理由、先生の原点は何ですか?

 本当に一生やろうと思ったのはボルネオに行って3年間滞在してからです。そこで様々なカルチャーショックを受けました。でもボルネオに行こうと思った動機は「西暦2000年の地球」を読んだことです。その中で暗い2000年が書いてあるわけですよ。それと新聞報道で色々問題になっているということで、報道からの刺激もありました。そして実際自分で行って確かめてみたいというのが出発点です。それは大学4年生の頃でした。そこで、熱帯林を巡る社会科学的研究をやるスタッフを探しているという話を耳にしたので、国家公務員試験を受けて森林総合研究所に就職しました。そこから全てが始まりました。