0
研究者インタビュー
柳沢幸雄




― まず、10点満点の評価でお願いします。東大の研究体制・設備の充実度。

 そうだね、研究設備は6点。研究体制は大学のマネージメントって意味なら、4点だな。


― 東大の社会への情報発信の充実度。

 私は東大の広報委員だからね(笑)、100点といきたいんだが、そうもいかないから、10点満点でいうと、6点だな。


― 学生が学べる場の充実度。

 学べる場の充実度は8点位あると思うな。ただ、学んでいない(笑)。


― では、次にYesNoでお答えください。原子力は導入すべきである。

 うん、Yes。


― 炭素税は導入すべきである。

 僕もそう思う。Yes。


― ごみ収集は有料化すべきである。

 一般家庭ごみは、リミットをつけてそれ以上は有料にすべきだろうね。例えば、一人当たり一日500グラムとかね。昔のお米の配給のように、各家庭に家族数に合わせて袋を配ればいいじゃない。その袋は無料、それ以上は有料とかね。


― 袋の売買が起こりそうですね。

 それはそれで、二酸化炭素の排出権の取引みたいに成り立つからいいじゃない。


― では、次です。GM食品(遺伝子組替え食品)は安全だ。

 遺伝子組換えは安全だとは思わない。なぜかというと、今の検査体制はDNAだけみてるから。例えば、遺伝子組換えで除草剤に強い作物ができたとしたら、DNA自身が作ってる物質についての検査と評価が十分にできていないから。今の検査の仕方で通ってしまうのは、DNAが検出できないような食品に関しては、表示しないで済むようになってるから。僕は、あれは間違いだと思う。


― クローン牛とかは?DNAは操作していないはずですが。

 クローン牛はクローン牛でいいんじゃない。


― 次の質問です。自販機は使わない。

 自販機は使ったほうがいいと思うよ。ただね、自販機が消費する電力量は、一回誰かがきちんと測ったほうがいいと思うよ。

 自販機はね、どうしたらいいかっていうと、太陽電池をつければいい。電力で今何が問題かというと、昼間のピークと夜のオフピークの差だからね、それが平準化することによって電力消費が楽になる可能性がある。昼は太陽電池を使って、夜は電気で、という形で平準化していく。なぜなら、原子力が増えないからね。原子力発電はね、完全に情報を公開したもので、やらざるを得ない(強調)。結局原子力発電がゆがんだ発電形態をとってきてるのは、完全に情報公開されていないから。それは、もともとは核兵器の関係の仕事をしてきた人たちが集まっているから。そして、みんな「羹にこりて膾をふく」形で逃げ回っている。

 原子力は今は総電力の30〜40%だけど、50%まで持っていかざるを得ないからね。50%まで持っていくとしたら、夜間電力をもっと使わなきゃ。昼間の電力をもっと減らして。夜間電力の需要がないから、夜間電力に合わせたベースロードによってでかい発電所は制限されている。しかし、発電の効率から考えると、でかい発電所で安定して供給するのが一番効率がいい。原子力の効率っていうのはまた別の考え方もあるけどね。


― そうすると、環境に配慮した発電、例えば風力、太陽光、太陽熱、地熱とかは、賄いきれない部分を補うという形ですね。核融合反応とかはいかかですか。

 核融合は当分使えないよね。多分2200年代になんないと、人類は使えないよね。


― 東大ではやってないですよね。

 多分やってないと思う。化石燃料の十分な供給が保証されないという意識になれば研究は進むだろう。


― 核融合の方が、原子力よりも効率はいいわけですよね。

 そうだけど、そんなに材料がない。基本的にはプラズマを電磁場の力で閉じ込めて高温を作ってるわけだけど。   


― 先生は環境学についてはどうお考えですか。

 僕がもっている環境学の定義というのは、「最大多数の人間が、人間の尊厳を持って天寿を全うできる社会を作ること。」つまり最終的な目標は、最大多数の人間が人間としての尊厳を持って天寿を全うできる社会。


― 身体に直接影響する問題が一番大きい。先生のご専門の、空気の汚染とかダイオキシンとかそういう方のイメージが大きいということですね。

 そうだね。だけど、身体的って言っても、「人間としての尊厳を持って」っていう、それをどう解釈するかによっても違う。だって、天寿を全うするってことは生物学的なことだろうけど、じゃあ、人間としての尊厳を具体的にどう表すか、その定義は人によってそれぞれ違うと思う。それぞれ違っててもいいし。だけど、そういう視点からもう一度自分の行為というものを評価し直す、っていうのが環境学だと思う。今までの評価軸っていうのは経済性であったり、利便性であったりしたけど、それにもうひとつそういう評価軸を付け加える。僕はだから、エコロジストではないからね。僕はあくまでも人間を考える。ただし、最大多数であって全員できるとは決して思わないけど。


― そうすると、ウサギがかわいそうだから守ろうとかっていう風な…

 そうそう、そういう発想は俺にはない。


― 動物愛護の系統ではないということですね。

 そう。でも例えば種の多様性とかは、今言った観点からは必要になる。


― あと、環境問題の未来は明るいかっていう質問なのですが。

 環境問題を仕事とする人の未来はすごく明るいと思う。ということは、人類にとってはものすごく暗い。我々が忙しいっていうのは、人類にとって望ましい状況じゃない。環境をやる人はねじれてないとできない。例えばね、環境をやってる人はよくおおかみ少年っていわれる。いつもこれが危ないあれが危ない…。じゃあね、おおかみ少年じゃない、理想の状態で環境の研究をやるとすると、どういうことになるかというと、例えばこの部屋の中でやばい物質を見つけたらね、全部測って、論文をかく。で、この状態を放置しておけば5年後にはこの位被害がでるだろうって。普通だったら、そのまま学術誌に投稿するけど、投稿しない。郵便局へ持っていって、内容証明する。で自分のところへ送り返す。ちゃんと日付だって入ってる。3年後に5人死んだ、まだ。30人、まだまだ、3桁まで。100人死んだら記者会見したらいい。「みなさん自然科学ってすばらしいでしょ。」それがおおかみ少年でない研究者としては理想的。

 逆に環境サイドから見た本当に理想的な状況は、あ、これはやばいとなると、行政やすべての関連する人間がパッパッパと対処して、何にも被害が起きない。それが理想的な状況。そうすると、すべての仕事が終わって慰労会をしているときに、新聞記者がやってきて、「あなたですか、余計なこと言って税金を無駄に使ったのは。被害はどこにもないじゃないですか。そんなことは元からなかったんですよ。」それが環境にとっての理想的な形。じゃあ、現実はどうするかというと、結局わかんないことはわかんないんだから、一人の被害者はしょうがないんだ。一人の被害者で止めることが大事。だから水俣病が起きたのはある意味しょうがない。だけど、一万人の患者を作ったことが間違い。数十人のレベルではしょうがない。もちろん、じゃあ、その数十人の人はどうなるのか、それはものすごくしんどいこと。我々の社会が新しいものをいれない、新しい化学物質も決して作りません、ということならば、そういう被害は未然に防げるかもしれない。だけど、新しいものや、変化することを許している限り、我々の社会はそういうリスクからは逃れられない。


― 社会とのとの接点は研究者にとって大事だと思うんですけど、一般の人が論文を読んでいるとは思えないし、そういうところはいかがですか。

 だから例えばこういう「職業としての環境」みたいな全学ゼミをやるのも社会との関わりだし。あと、講演会を開いたり、テレビの取材に来れば、まず、あんた、これじゃ足んないや、この本読みなさい、とか言ってディレクターを教育する。そういうような形の社会教育は常にしている。この授業を除いても、少なくとも月に二回は、講演とか、テレビとかで、いろんな考え方を伝えている。


― 環境問題をやる中で、影響を受けた人や本などがあれば教えて下さい。

 俺が影響を受けたのはね、ユージン・スミス。写真家。水俣病の写真を撮った。あの一枚の写真がすべて。


― では、学生に対しての意見をいただきたいのですが、今の学生を見てどう思いますか。

 今の学生は賢いよ。賢いってのは、要するに、無駄なく効率よくやろうっていう意識が強すぎる。ノウハウを人から得よう得ようとしてる部分がある。ノウハウっていうのは自分で見つけるもの。例えば野口悠紀雄さんみたいに超整理法なんて書けるのは、結局自分でやってきたからであって、あれを読んで自分のものにしようと思っても決してできない。しかし、そういう情報を得て、なるだけ無駄をしないようにってことをあまりにも強く意識しすぎている。やっぱり、学生の頃っていうのは無駄の集積なんだ。つまりこれが無駄だったと思うことで、もうそれをやらないってことに自分で確信が持てるようになるわけだ。だからある程度時間のある時期に無駄なのかなと思いつつもやってみるのが大事なのかもしれない。だいたい、「ぴあ」ができあがったのは今から10年とか15年前だけど、ああいう情報誌っていうのが、ずらずらあって、今の学生はどこのラーメンがうまいとかよく知ってるけど、それが今の学生と我々の世代とを分け隔てる一番大きな要素だと思うよ。情報誌がそれだけ売れるってことはね、人の足で選んだものを取り入れて分かったような顔しようとしてるね。


― 環境に絡めて言うとどうですか。

 環境の負荷はもう我々の時代に比べて格段にでかいよ。だって持ってるもの考えてみろ。三畳間で暮らしていたのが、今じゃ六畳間じゃ暮らせないだろうに。それだけ考えたって、環境に対する負荷は歴然としている。


― 環境への配慮って言うのは。

 意識はそれほど変わってないと思う。けど、我々の時代は電気を使おうにもそういう商品がほとんどなかったんだから。それは意識というより時代の流れだと思うよ。


― 今で言う地球環境問題は、昔は公害という形だったと思うのですが、問題に対する理解度の個人差とかはどうですか。

 それはね、単純な方が運動は起きやすいんだ。だから、俺が学生のころにはチッソの一株運動っていうのがあって、一株持ってチッソの株主総会に乗り込んで行くんだよ。総会屋みたいなもんだよ(笑)。それで「怨」ていう旗を掲げてさ。そういうのはよくやったけど。あれは、明らかにチッソが悪いって分かっていたから。だけど今、地球環境って誰が悪いんだろう。お前が息するのもいけない(笑)。複雑にからみあっちゃって像が見えないという時代になったからね、学生たちがストレートに行動できないのだろうと思う。


― 環境研究を目指す学生へ、一言お願いします。

 特に駒場の学生には、学部のうちは環境のことはやるな。今から30年前くらいの学科紹介に書いてあるような古くから続いている分野の学問をきちんとやる。それで、環境研究がやりたいんだったら、修士できちんと環境研究をやる。なぜかと言うと、特に技術系、理科系の学生であれば自然観が身につくから。学問にはそれなりの体系ってものがあって、ひとつの体系の全体像をつかむことによって、自然というものの構成がどうなっているかということを直感的につかめる、そういう自然観が身につく。環境っていうのは非常に範囲が広いからね、我々教える側としても全部虫食いというかね、ちょこちょこちょことしか食わない。そうすると体系ができないから学問観ができない。そう言う観点からも東大が環境を大学院に置いたっていうのは正解だったと思う。


― 工学部とかで近いことをやっているところはどうですか?

 もちろん、環境って銘打っている学科もあるけども、その中で、例えば化学反応とかね、オゾンが分解する反応メカニズムを地上でシミュレーションするための卒業論文とかね、そういうようなことは別にいいんだよ。それは、立派な化学の仕事だから。だけど、それを環境との関連でやるためには、サテライトセンターデータを得て、データの統計解析とかが必要になる。そういうようなことの勉強は修士でやればいい。例えば法律だったら法律で、学部で手続法と規正法についてとか、民事訴訟法と民法がきちんと分かれば、環境アセスメント法みたいな手続法と、実際規制をかけるときの規正法との関係というのが、環境に適応するときに簡単に分かる。学部で総合ってついてる学科あるだろ。総合ってついてる学科は絶対に行かないほうがいい。決してものになんない、保証してやる(笑)。だから本郷行くときは、理科系だったら、土木工学でもあるいは応用化学でも有機合成でも、なんでもいいんだ。とにかく専門の知識を身につけること。後々必ず役に立つんだから。それで、大学院で私のところへいらっしゃい(笑)。

 最後に、1999年7月20日の東大新聞の柳沢教授の記事の抜粋より。

 「研究にしても教育にしても、各個人は環境学の壮大な領域の一部しかカバーすることができない。それ故にこそ、我々はすべてに繋がるシステムを構築しようとしている。」