愛知万博を訪れて

市川雄介さん(12期)、菅原大嗣さん(12期)の企画により、今年9月13日から15日にかけて、2005年日本国際博覧会(略称:愛知万博)に行ってきた。 【文責:小川和孝(13期)】

概要

写真1 今回の万博は「自然の叡智」をテーマに掲げており、自然の仕組みを学び、持続可能な社会を目指すという姿勢を前面に押し出していた。実際、間伐材や竹等のバイオマス素材を使った建物や、微細な霧を利用して大気を冷却する装置など、会場の随所に様々な工夫が見られたし、各国や企業の展示も環境問題を中心に据えたものが多かったようである。一方で、万博会場の建設にともなう周囲の自然破壊など、批判も少なからずあったようだ。しかし、そのような背景的なことはここでは問題としない。万博に行き、そこで見たものから得られたことについて書こうと思う。

雑感

写真2 他の参加者はどうか分からないが、私自身は地球環境への知識を深めたいとか、それを守るための最新の技術を見たいとか思って万博に行ったわけではない。むしろ、世界各国の産業や文化の展示という本来的な万博の意味の方に興味があり、アジアやオセアニアのいわゆる発展途上国の外国館を多くまわっていた。知識にしても文化にしても普段西欧のものばかり摂取しているからかもしれないが、そこで得られたものは新鮮で、自分が思ったより狭い価値観にとらわれていたのだと認識を改めさせられるものであった。

 文化人類学における用語として、文化相対主義、すなわち各文化には固有の歴史や価値があり、善悪や優劣はないとする考え方がある。これは過去の植民地支配や、西欧中心主義の反省からくる重要な考え方であり、現在広く一般にも受け入れられているが、まだまだ実践の面で問題があると思う。頭では理解しているつもりでも、例えば魔術で病気が治ると信じていたり、神の怒りを静めるために子供を生贄にしたりする民族と聞くと、どこか正しくない、劣ったものとして考えてしまいがちである。これは極端な例かもしれないが、環境問題を取り上げても同じような側面があると思う。国家間・民族間の対立が生まれることはしばしばあるが、その多くは互いの文化を相対化することの困難さが一因としてあるのではないだろうか。

 ならばどうすればよいか、そもそも異なる文化を理解するのは本質的に可能なのか、というのは簡単に議論できるものではない。しかし一つ言えるのは、私たちが常識として取り入れてしまっているものから一旦自由になる場というものが、もっと多く必要ではないかいうことである。ある対象を理解するにはそれに先立つ我々自身の変容が必要であるが、国際化が進んだ時代とはいえ、私たちは普段異文化の表面的な理解にとどまっており、そのような場に体験するということは意外と少ないのではないかと思う。

まとめ

 もちろん、今回の万博で私が触れた文化も、極めて一面的なものに過ぎない。しかし、これだけの規模の展覧会から受けた刺激というものはやはり私に少なからぬ影響を与えたし、また、一緒に行った人たちと楽しく過ごせたこともあり、とても良い経験となった。

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