圏央道・高尾山問題

高尾山プロジェクト責任者 渡辺善敬

(本稿は、高尾山プロジェクト責任者の渡辺善敬が、シンポジウム終了後、環境問題や、保護運動のあり方などについて、自身の当プロジェクトにおける経験から感じたことをまとめたものである。)


 圏央道建設・高尾山トンネルをめぐって訴訟になっている問題について、推進する行政と反対するNGOで両者が納得する解決がなされたとはいえない。破壊と保護という短絡的な問題ではなく、人間の活動の一環として、自然に対してマイナスの働きかけがなされる際に、自然保護以外の他の目的とどう折り合いをつけるのか。意思をもった主体の間で行われる取り組みから、自然をまもること、環境保護の内実について考察したい。

A.環境破壊の…

(1)主体行政(国土交通省・日本道路公団)
(2)客体人の手の入った自然(観光地としての高尾山)
(3)どのように必要最小限の負荷はしかたがない(トンネルの掘削)
(4)なぜ国土・経済政策の一環(圏央道・経済効果)

B.環境保護の…

(1)主体NGO(高尾山を守る会)
(2)客体生活・人格の一部としての自然(心のよりどころとしての高尾山)
(3)どのように現状維持(トンネルの掘削の反対)
(4)なぜ豊かな自然を次世代に残したい

C.学生団体としてのかかわり…

(1)主体学生グループ(環境三四郎)
(2)客体不明確
(3)どのように調査・実践活動を通して
(4)なぜ社会問題にかかわる

問題の論点

 この高尾山問題の本質は、(1)環境に対して破壊の主体と保護の主体において、客体・方法・理由のずれがあること、そして、(2)問題解決の意思決定のむずかしさ、という二点であった。
 第一点につき、行政側はAのような立場から、経済効果との比較考量、環境対策の実施によって、開発を進めている。手続き的には、現行の環境アセス法や、土地収用法にのっとっており、違法とはいえない。一方、NGO側は、裁判での「人格権」の援用、経済効果への懐疑にみられるように、Bのような立場から倫理性・政策的妥当性を問う形での保護運動となっている。
 進行している高尾天狗裁判による保護の実現は事実上困難である。違法行為を行政がおこなっていると判断するのはむずかしく、経済政策の一環としての政策判断には行政権の広い裁量が認められ、司法権の審査が及ぶ範囲が限定されているからである。実際、裁判においても「人格権」(高尾山の自然破壊にとって保護主体が受ける損害)は認められる可能性はうすい。
 また、客体のずれは大きな問題と言える。どこまでの自然を守るべきであるのかが不明確であり、手続き的にも行政側に配慮はあるが、間違いなくマイナスの影響は生じる。しかし、一方でNGO側の現状維持についても、すでに一定程度人工地となっている自然の現状維持に、強力な説得力があるとはいえない。
 第二点としての意思決定。環境への悪影響の主体が国家である以上、その計画決定は民意に基づくべきであるのが建前ではあるが、実質的決定は、選挙で選ばれているわけではない国家公務員によってなされている。その政策的妥当性に関して「素人」としての一般人がどうかかわっていくのか。NGOの意見表明手段としては、情報公開法や、土地収用法など国民の人権を保護する法律をよりどころとしながら、それら立法と行政の活動の齟齬をつきながら意思決定を変更させると言う方法がとられている。しかし、一度決定した計画の変更はむずかしく限界がある。議会に代表を送り国家レベルの意思決定に影響を与えると言う方法は理想的ではあるが、本件のように問題に地域性があり、国民一般に対する普遍的な事件でないと言う点でむずかしい。

改善の方向性

行政は…
 私見としては「NPMの導入」が自然保護の推進力になるのではないかと感じた。行政の構造的問題点としては、硬直した行政執行システムが挙げられる。「一度決めたことは絶対にかえない」というスタイルは、計画−実行(Plan−Do)の繰り返しと言う、自己評価の仕組みがないからである。採算の合わない道路をつくることは、与えられた予算の配分を消化することが第一義的になっているからで、それを改善するひとつの方向性としていわゆるNPM(ニュー・パブリック・マネジメント:新公共管理)の概念が有用ではないか。非効率的といわれる官僚機構の中に、競争原理を導入し民間の経営手法を導入することで、Plan-Do-Seeのマネジメントサイクルを取り入れ、計画と実行に加えて、「評価」をすることで非効率的な部分を削減する。民営化も含めた行政機構の改革の方向性である。
 本件についてみれば、圏央道の経済効果について、人口増加率の減少・道路需要の低減などを見つめ、事業の効率性に見直し(評価)の流れが起これば、事業の見直しなど、効率的な行政が行われるはずである。そして、侵害される自然についても最小限のものになるのではないだろうか。環境アセスという実施のチェックに加えて、計画自体のチェックとしてのNPM、行政の非効率性の改革が、自然保護につながる可能性はある。

NGOは…
 「環境問題にかかわっている人は、各々のグループに分かれて、それぞれ自分たちがやりたいことをやっている。そんなバラバラでは社会を変える大きな力にはならない。」これは、あるセミナーで耳にしたことである。圏央道建設についても、さまざまなNGOが反対運動をおこなっており、そのネットワーク強化のための代表者会合のようなものも開かれているが、結びつきは強いとはいえない。環境NGOとひとくくりにできても、扱う対象から、規模、目的などさまざまで緊密な連携をとることはむずかしい。「公共事業に反対するNGOの会」なるネットワークが存在するが、現状としては各NGO代表の交流・意見交換以上の役割をもとめるには発展途上にある。しかし、その予算や会員数を増やしながらネットワークを強化することで、大規模で統一的な意見表明活動がおこなわれれば、その影響力も無視はできなくなるにちがいない。
 また、署名運動など地道な運動を通じて意見表明していくことはもちろんだが、参加型の企画、活動を展開していくことがネットワーク強化につながるのではないか。人をつどっていくこと、輪をひろげ、共感を作ることが、集団の根幹をなすからである。高尾山を守る会においても、自然観察会などが行われていたが、若い世代のかかわりが薄いと感じられた。学校の課外活動として、高尾の自然に触れたり、楽しんだりする機会を増やしていくことに将来性があるのではないか。また、専門性の獲得も重要であろう。反対意見の表明だけでなく、シンクタンクとの連携によって実効的な政策の代替案の提示がなされることは、実効的な政策見直しへの提言であり、自然保護につながるとは思われる。ただ、NGOの財政的基盤の拡充が望まれる。

学生としてかかわる中で

 調査活動以上の何か。社会への働きかけを。との指針のもと、一学生サークルが社会問題にかかわってきた中で、得られたものも、限界もあった。
 学生の位置付けとはどのようなものか。中立性が指摘できるが、事業の推進側・反対側の双方にヒアリングにいくことができた。対立する主体間では、人的交流がないため情報の行き来がすくない。その意味で、学生は情報のバイパス役となりえる。当問題の調査について、賛成反対の二極の主張と根拠を整理できたことは、問題の理解を深めることにつながった。
 しかし、いざ調査活動を超えた働きかけをする、結果を形にすることは非常に難しかった。専門性を持たず、確固たる主張が確立されていない、できないために、結果に向けて働きかけるインセンティブが薄い。「ほんとうにこれでいいのか」そんな気持ちを抱えた状態ではひとつの方向性をしめし、実現に向けて活動することは難しい。調査をすればするほど、答えがでない。どこまで深めればいいのか。その際に、どうしても「当事者ではない」という第三者意識があったことは否定できない。また、中立という立場や、どのような活動をすることもできるという、自由度は、かえって指針の喪失という状態をもたらした。
 一つの集団、まとまりとして、コンセンサスを得るのはむずかしいが、なにをするべきかの一点だけではなくて、何ができるのか、に根ざした活動であれば大きい達成度が感じられたのではないか。メンバーの興味を生かしながらのできる範囲での働きかけ。当プロジェクトにおいても、調査活動や問題理解に関心の高いメンバーが多いことを活かし、調査の徹底とその公表(出版するなど)に力を入れるという方向性があったのではないかと思われる。
 そもそも学生サークルは、人の輪であり「自分の居場所」としての性格を確保することは、活動の充実に不可欠であろう。そのためには、的確な目標設定や、達成度の感じられる小さなハードルの設置が大切であって、「シビアさ」の中になんとか「楽しさ」を盛り込めるかが鍵になる。その点、時間的制約やミーティング・ミーティング外の活動の未熟さが、メンバーの達成感・満足感を押し下げることになり、反省すべき点が多かった。第三者としての学生。活動の一環として、さまざまな方にヒアリングを行って感じたのは、問題の当事者が期待しているのは解決への原動力ではなく、私たち学生への教育効果であった。「やわらかい頭で、厳しい現実を見て、それを他の人に伝えてほしい。」そんな声を幾度とかけてもらえた。学生らしさとはそこにあるのであり、現実を見て、学べ、吸収できた部分は今後にいきるのではないか。

環境問題について

なにを守るのか、どのように守るのか、なぜ守るのか、の相互関係 環境問題の根本は、広い意味での「意思決定」である。保護の、破壊の、第三者のそれぞれの主体が、それぞれの志向のもとに、働きかけをする。問題解決への行動について、対象・方法・理由の三要素が密接に絡みながら、結果に違いを生じさせる。つまり、何を守るかが変われば、どのように守るかも、なぜ守るのかも異なってくる。なぜ、守るのかが異なれば、優先順位として何をまもるのか、どのように守るのかも異なってくる。この視点から、環境問題といわれるものの現状と方向性について高尾山における自然保護を例に取りながら考えたい。
 何を守るのか?客体の不統一と細分化が、環境問題の難しさであると言える。「環境」とひとくくりにされる中に、自然環境・生活環境などさまざまな客体がある。森林保護。ゴミ。原子力。遺伝子組み替え。都市景観。野生動物保護。地球温暖化。化学物質汚染。エネルギー。「守る」とひとくくりにはできないが、解決のための行為の対象は限りがない。
 どう守るのか?これは、なぜ守るのかが明確になれば、それに応じた措置が現実となるだけのことである。高尾山問題にしても、理由付けの違いが、具体的な保護措置の違いとなって現れている。
 なぜ、守るのか?人類の危機だから?社会問題だから?倫理的に?個人の趣味で?少なくとも高尾山にトンネルを通すことが人間の生命に直接結びつくものではない。一方で、自然を残すことは一部の人のエゴかといえば、そうもいいきれない。水俣病や地球温暖化のように、問題が人命もしくは多大な経済的損失になる場合は、問題解決への努力も目に見える形で進んでいる。しかし、当高尾山問題のように、倫理性や自然への愛好といったレベルでは多くの人の共感を得、保護の実施をすすめるのは困難であった。それは動物・自然自体の人権が認められていないことの裏返しである。
 つまり、なぜ守るのかという軸によって環境問題一般を整理できる。人類への危機・損害の度合い・切迫性が高い・直接的なものは、地球温暖化や遺伝子組み替えなどであろう。不確実性についてはともかく、これら優先順位の高いとされるものは、いわゆる「総論賛成・各論反対」の状態に陥っており、コストの負担をどう分配・実現するのかということが、中心的議題であろう。
 一方、危機・損失が間接的なもの(当高尾山問題など森林保護)の中心的議題はことなる。そもそも、守るべきなのかという部分から入っていかないといけない。理由付けに個人の嗜好や倫理性がたぶんに含まれているために、どうしても弱くなってしまう。プライオリティーが低く解されるのである。そのため、保護側は危機や損失が決して間接的ではないことを主張して、保護の理由付け・インセンティブを与えようとするが、その証明や共感を得ることはむずかしい。科学的知識の裏づけが必要であるし、第三者には第三者の関心事があるからである。その科学的裏づけという点では、当プロジェクトでの「いきづまり」が当てはまる。環境への影響、道路建設での利益等の大まかな比較考量はできても、次元の違うものをどうくらべ、意思決定していくのか、よりどころとするものがなかった。
 では、間接被害の自然破壊は許容範囲が広いのか?現実問題として、広いことは否定できない。しかし、そのことに疑問を感じる人は現に存し、増える可能性があることもまた事実である。つまり、行政などのトップダウンの意思決定においても、一般層の広い問題意識・志向が大きく影響する。その底上げが、時間はかかるが着実であろう。倫理性や価値観による決定の部分が、直接被害の問題よりも大きいからである。「自然の権利」が容認されるようになる可能性もないとはいえない。環境教育の活性化も、自然環境という要素が、選択の軸になるという意識を植え付けることに貢献するであろう。エコツーリズムなどの活況も、第三者の目線を変えるよい機会になる。逆にいえば、価値観・倫理性であるがゆえに、保護主張者の視点の押し付けになっている危険もあるわけで、それは各一般人がいろんな経験(上記のような)をとおして、自ら価値観をはぐくんでいき、意思決定を形成していくしかないのだと思う。

活動紹介

→高尾山プロジェクト

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