環境の世紀IX  [HOME] > [講義録] > 講義第1回

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環境問題の常識・非常識 〜相手の立場に立つ

廣野喜幸教官

自己紹介

 こんにちは、廣野と言います。駒場の理系大学院はまとまって広域科学専攻というところに入っていますが、その中の相関基礎科学系という大学院に所属しています。私は他の先生のように研究者になりたいとかいうことを思ったことは一回もありません。動物を眺めて飽きたら温泉に入る、という日々を目指していたのですが、高校の時に動物行動学という学問があってそれはただ動物を眺めていればいいらしい、ということを聞き及んで、さらに動物行動学をやるには生物学を修めなければいけない、ということで理二に入りました。それで生物実験に出ていて「東大の教師というのはなんと理不尽なものだろう」と思う出来事がありまして、その実験をボイコットするようになりました。さらに家の事情で授業料が払えなくなったので休学しました。それで何か生物学が嫌になってしまって、大学の3,4年生は駒場の後期課程にある哲学教室にはいって哲学をやり、デカルトについて卒業論文を書きました。けれども思い断ちがたく、哲学をやめてまた生物学の大学院へ入って、シロアリの研究をするようになったわけです。

ゴキブリとシロアリ

 シロアリというのはアリと名前がついていますがアリの仲間ではではありません。アリとハチは同じグループで、シロアリはゴキブリ・カマキリと同じグループです。シロアリ・ゴキブリ・カマキリの方が原始的で、アリ・ハチの方は高等です。ゴキブリからシロアリは進化したのですが、ゴキブリがシロアリにどう進化したか、それを遺伝子から調べよう。ゴキブリとの遺伝子の違いを調べて、ゴキブリとシロアリの遺伝子で違うところがシロアリの進化に関係あるんじゃないか、ということでゴキブリの研究もしました。その辺にいるチャバネゴキブリなど違って、オーストラリアにいるヨロイモグラゴキブリという親子で住む高等なゴキブリもいます。こういう親子で住むゴキブリから親子で住むシロアリが進化してきたのだろう、と言われています。

 ゴキブリは最初のうちは指数関数的に増加しますが、ある一定のところで増加が止まります。それ以降は死ぬ数と生きる数がだいたい同じになるので、同じ数を保てるのです。これを環境収容力と呼んでいます。ゴキブリの数を一時的に減らしても、環境収容力は温度・微生物の量・食物の量などで決まっていて変わらないので、すぐに元通りに増えてしまいます。どうすればいいかというと、逆にゴキブリを追加してやればいい。環境収容力を超えた数がいると環境収容力が落ちるので、結局はゴキブリの数が減ります。

常識の変遷

   『常識を見つめなおす』

 これが、環境の世紀Xのコンセプトである。環境問題という言葉は言われて久しく、多くの人が関心をもっており、それなりの解決策も立てられている。それにもかかわらず環境問題が解決されないことに対して、解決策の実行・実践が不十分であることが問題だとよく言われる。しかし、野田さんは、「今回の環境の世紀Xでは、解決策の実行が不十分なのではなく、そもそも解決策の目指す方向が間違っているのではないか、解決策の徹底度を高めることよりも、解決策の目指すべき方向を確認することの方が大切なのではないかという問題意識を強調していきたい。」という。『常識を見つめなおす』というコンセプトは、そのような問題意識を象徴する言葉なのである。(環境三四郎ウェブページhttp://www.sanshiro.ne.jp/より)

常識というのは明治時代に入ってきたcommon senseの訳語です。
 (1)普通の社会人がもっているべき知識、ないし理解や判断力。
 (2)すぐれた見識、いわゆる<良識> bon sens
 (3)通俗的で陳腐な考え
(1)が基本的な意味で、これを軸として互いに相反する(2)と(3)の意味が生じてくる。常識というのはこのように揺れます。まず(1)の社会人、社会という言葉に注目してください。常識と社会には相関関係があります。社会が違ってくると常識も違ってきます。それから状況が違えば、常識がプラスに働くこともあるしマイナスに働くこともある。最近環境問題について形成されつつある常識というのは(3)の陳腐な意味のものではないか、それを見つめなおして良識の方に持って行こう、という発想がこの講義のコンセプトなのです。

「公害問題」から「環境問題」へ

 丸山先生や私が学生のころは、環境問題という言葉を聞くことはまだなくて公害問題が主流でした。水俣病が公式に認められるのが1956年、新潟水俣病が1965年、富山のイタイイタイ病が1955年、四日市喘息が1960年というようになっています。

公害対策基本法 1967年
庄司光・宮本憲一『恐るべき公害』岩波新書、1964年
原田正純『水俣病』岩波新書、1972年
庄司光・宮本憲一『日本の公害』岩波新書、1974年

 これから見てもわかるように60年代から70年代にかけては、公害問題というのはありました。今、環境問題というのは、地球環境問題である生物多様性の減少・熱帯雨林の減少・砂漠化の問題・地球の温暖化・オゾン層破壊、それから汚染問題である核廃棄物・化学物質・農薬・環境ホルモン、またエネルギー問題、人口問題、資源問題という形に分けられて、昔自然保護と言われていたのは80年代を通して大きな枠組みの中の小さなサブグループの問題だと見なされるようになりました。ですから先ほど環境三四郎のwebページの言葉で「環境問題という言葉は言われて久しく」とありましたが、私の感覚としてはだいたい18年くらいで、久しいというよりはいつのまにか環境問題に変わってしまったという感じです。

カーソン『沈黙の春』1964年
環境三四郎 1993年
環境基本法 1993年

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのはかなり先駆的だったのですが、当時は環境問題ではなく自然保護問題として捉えられていました。環境三四郎、環境問題のサークルができたのはようやく10年前、ということからもわかるように環境問題というのはかなり新しいものなのです。

 公害問題や自然保護問題が言われていたころは、例えばダニやシロアリの保護を訴えても、同じ生物学者でさえ「どうして害虫を保護しなきゃいけないんだ。」という発想をしていました。生態系の保存というのはそういう発想ではいけなくて、害虫であろうと害獣であろうと鍵となる種(key speices)ががなくなってしまうと生態系自体が崩壊してしまうんです。自然保護の時代には「自然保護」と「開発」という対立があって、自然保護をすれば開発ができなくなる、開発ができなくなるとそこに住む人間の暮らしが成り立たなくなる、人間とシロアリとどっちが大切なんだと問われてシロアリと答えることはできない、すると開発しましょう、ということになる。ですからなぜそもそもゴキブリやシロアリを守らなければいけないか、ということを言うのが一番重要なことでした。そのとき自然保護の関係者は「原生自然(wilderness)を守ろう」と言いました。自然には3つあって、まず自然科学で言う自然は森羅万象のこと、次にに人為、人が関係しないという意味、3番目には熱力学的なもっとも自然な安定した状態という意味があります。我々は2番目の意味の自然、人の手が入らない自然を残すのが重要だ、という言い方をしてきました。そう言って人の手を加えさせなければ、ダニとかシロアリとか言わずに彼らを生き延びさせることができるからです。1985年ごろには「なぜ原生自然を残さなければいけないんだ。」と正面切って言う人はいなくなり、最初に引用した意味での常識となりました。現に今はどんな開発事業でも最初に環境アセスメントをしなくてはいけないことになっています。

常識再考

1.循環型社会

循環型社会形成推進基本法 2000年6月2日(金)
環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部循環型社会推進室『循環型社会白書 平成13年版』ぎょうせい、2001年
環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部循環型社会推進室『循環型社会白書 平成14年版』ぎょうせい、2002年

 2,3年前から日本を循環型社会に変えていこう、国として系統的に徹底的にリサイクルをやっていく方向に変えていこう、ということになりました。これは資源問題・エネルギー問題と深い関係があります。日本のエネルギーは原子力と石油・石炭という化石資源によってもたらされていて、化石資源は白亜紀くらいの植物が変化したストック型資源なので埋蔵量が限られています。木は二酸化炭素や太陽の光で更新されるので、フロー型資源です。こちらは日々作られているのだから、作られているのと同じ量だけ使っていれば持続的な発展が可能なわけです。フロー型資源でも作られる量を上回って人間が過剰にいるから問題になるのですが、ストック型資源の方は使ったらおしまいで更新されません。でもエネルギー問題はなんとかしなくてはいけない。そこで使い終わったものをまた使う、というリサイクルの素朴な考え方が生まれます。使ったものを理想的に8割リサイクルしてまた使えるとすると、だいたい5倍はその資源が長くもつ計算になります。

 ところが、リサイクルすることによって逆に環境への負荷が高くなるということも言われます。例えば紙をリサイクルする場合、使い終わった紙を古紙業者が回収してそこからある程度の量を純粋にパルプとして取り出します。もともとの木の中にも、回収した古紙の中にも紙になるようなものが分散して入っていますが、それを放出させ、いろいろ手間ひまかけてパルプにしていく。問題は分散度です。分散していればしているほど労力がかかります。労力はだいたい分散度の二乗に比例すると言われています。また牛乳パックをリサイクルする場合は二昼夜煮続けるということをやるので、エネルギーを使います。するとリサイクルした方が環境負荷が高くなるらしいのです。リサイクルすると、木については消費量が少なくてすみますが、埋蔵型資源の石油などについては多く消費してしまうので、どちらが良いかわからなくなってきました。

槌田敦『環境保護運動はどこが間違っているのか』 JICC出版局、1992年
武田邦彦『リサイクル幻想』文春新書、2000年

 このお二人は昔から「循環型社会」に批判的な方です。お二人によると、たいていのリサイクルでは、リサイクルした方がコストも高いし環境負荷も大きくなるそうです。ではコストは安いが環境負荷が大きい、という場合と環境負荷は小さいがコストは高い、という場合とではどうかというと、今の世の中は資本主義経済の社会なのでコストの方が重視されて、前者が実現されます。

 結局、「リサイクルすればよい」という素朴な直感は、現実のリサイクル過程をやってみることによってトータルの環境負荷を見るとそれほど小さくはないんじゃないか、という結論になっています。

2.「原生自然」保護

 火山の噴火があると地面は溶岩に覆われてしまって緑というものが全くなくなります。そこに外から植物がやってきて、パイロットプラントと呼ばれる過酷な環境に強いものが芽を出し根を張ります。根が張られると地面に隙間ができて、ほこりなどで有機物ができ、土化します。土化していくと土に適した違うタイプの植物が生えます。パイロットプラントは自分が成長することで環境を自分が生きていけないように変えてしまうわけです。日なたで育つ陽樹も出てきますが、植物が生えると日陰ができるので日陰で育つ陰樹もでてきます。陰樹が育ってくると、陽樹は日なたでしか育てないので陰に隠れてしまってもう育ちません。最終的に陰樹ばかりになるのを極相と言い、この移り変わりを遷移と言います。京都のアカマツ林は陽樹の多い段階だったのですが、自然保護の地域指定されました。自然保護法で指定された地域は一切、人為的な力を加えてはいけないことになっているので、人の手が入らないようになって遷移が進行し、違うものになってしまいました。結局は自然保護法の精神が活かされなかったのです。「原生自然を守ろう」という常識が実践してみると裏切られてしまいました。

3.ダイオキシン

 シロアリには女王シロアリや働きシロアリ、兵隊シロアリがいますが、子どもを産めるのは女王シロアリだけです。シロアリの遺伝子を調べると、形態を制御するホルモンもわかります。そこでホルモンをかけてやると、全部働きシロアリにすることができます。そうすると子どもがいないのでそのうち全部死んでしまう、というのが私の研究の売りだったのですが、まだまだそういうことはできないです。昔はシロアリ駆除剤としてダイオキシン・六価クロム系のものを撒いていたのですが、もちろん人体に被害が出るということで使用禁止になりました。だから今は物理的に取り除くしかありません。もし取り除き損ねた中に働きシロアリがいると、その働きシロアリが副女王と言って卵を産むようになります。そのようにダイオキシン規制法というのでダイオキシンは厳しく規制されました。ところが最近ダイオキシンの被害はそれほどではない、という研究成果が最近本になっています。その本によればダイオキシン規制法というのは天下の悪法だというわけです。

常識再考再考

 まず言っておきたいのは、歴史的には一番最初に、公害や自然保護問題を人びとに納得させるために保護側が「原生自然を残さなくてはいけない」「リサイクルしましょう」などと強めのことを言っていました。その時は現実に適用すれば本当にできるか、ということは考えていなくて人びとの意識を環境や環境思想に向けることに重点を置いていたんです。小宮山先生も講師紹介で言っているように、これからは環境問題を解決しようと声高に叫んでいる時代ではなくて、現実にどう解消していくか、という時代になった。みなさんの時代は、これまで我々が環境意識を高めるがために言った強調のしすぎを是正して現実的な問題として取り組まなければいけない状況にある、ということです。

 もう1つ言っておきたいのは、さっき紹介したダイオキシンはそんなに危害がなかった、ということを私はまだ信用していません。それから手つかずの自然を残すことについて京都のアカマツ林の例を紹介しましたが、白神山地でも原生自然を残すということでそこで生活していた人たちを追い出すということをします。インドでもトラを守るために、その地域に住んでいた人を追い出します。するとカースト制度において下層民の人が多いので、よそに移ると生活が成り立たなくなってしまう。つまり手つかずの自然、原生自然とばかり言っていてもだめなのです。実は、先ほど説明した遷移の考えもまちがっていて、実際スムーズに行われるのは3割くらいではないか、と言われるようになりました。そこで手つかずの自然などありえないのだから常に人が自然に手を入れなければいけない、その場その場でベストの対策を行って、ただしデータを取ってその対策がまちがっているとわかればすぐに直せるような態勢にしておこう、という順応管理が言われるようになりました。今までの常識に安住することなく、常にチェックして常識が陳腐化していたら良識に帰るべく直していこう、というわけです。原生自然思想から順応管理思想に置き換わりつつあるのです。

新たな社会システム

 リサイクルというのがあったがリサイクル幻想にすぎなくて、リサイクルをすれば環境負荷が小さくなるということはないんじゃないか。原生自然を残せば生物多様性が保存されるということはないんじゃないか。という疑いが持ちだされました。ところが逆に、だからリサイクルはだめなんだ、だから原生自然は残さず全部順応管理にすればいいんだ、ダイオキシンは規制しなくていいんだ、と言い始めると、これは新しい常識ではないでしょうか?古い原生自然信仰を打ち破った新しい思想だからといって直ちに受け入れてしまうのは、やはり新しい信仰にすぎない可能性がある。我々はいろいろなタイプの選択肢を思い浮かべてその中から選ぶということをやらなくてはいけないんです。環境問題でやらなくてはいけないのは、我々が作ってしまった強調しすぎの古い常識を破ったその後で、新しい1つの常識に固執するのではなくて、いろいろなタイプの環境保護対策のシステムを構築していくことなのです。新たに制度をいろいろ構想していくうちに違った姿が見えてきます。順応管理思想で見たときの原生自然と景観生態学という思想の中で見たときの原生自然は違います。リサイクルについても、コストが高いし環境負荷も高いからだめと言いましたがはたしてコストを低くしたり環境負荷を低くしたりするような社会システムというのはできないものだろうか。そう考えなくてはいけないのです。

 常識に安住していてはいけない。「本当の〜」は本当に本当か、と常に疑ってかかる必要があります。「常識を見つめなおす」というのは、常に一歩離れていろいろな可能性を考え、理性の目でどれが一番いいかを選択するということです。ところが熱力学の第2法則や重力の法則というのは社会システムの問題ではありません。するとこれからみなさんには、環境問題があった時にどの部分がゆらがない原理であるか、どの部分は変えられるのかを見極める力がないといけない。小宮山先生の講義を聞くと、自然問題や環境問題にとってこれだけは未来永劫変わらない部分がわかると思います。それ以外は変えられます。例えば、体というのは身近なもので昔から体の動き方は変わっていないと我々は思っていますが、歩き方というのは明治時代に変えられたんです。最初に常識というのは社会との相関だと言いましたが、思っている以上に変えられる部分は多い。

カブトガニの放流

 関口先生という方が笠岡市でカブトガニの放流をしていらっしゃいます。またサケの放流も聞いたことがあると思います。最初の方に言った環境収容力を考えてみるとこれが生物多様性の保存にとって本当はいいことかどうか、わからない。逆に過剰に入れることで環境収容力を下げてしまっている可能性もあります。しかし、だからといってカブトガニやサケの放流を非難する気にはなれない。やはりまだ、人びとの関心を呼び起こす効果があるからです。やっても無駄ですよ、と水をかけるようなことを言えばせっかくやっている人の気持ちがそがれます。地域の環境を守るということは、政策をどう変えるか。政策をどう変えるということは、政治家や官僚がどういう法案を作るか。どういう法案を作るかということは人びとがどのくらい支持するかどうかということに関わってきます。ひょっとすると関口先生が長年放流しているおかげで人びとの参加が増え、NPOの参加が増え、笠岡市の開発が止まってカブトガニにとって良好な環境が一気に戻ってくる可能性がないわけではない。だからどちらが正しいかということは言えなくなってきます。

最後に

 最初に野田くんが言ったようにどの方向を向くのが大切か、というのがこれから問題になってきます。循環型社会をこのまま続けるのか、リサイクルなんか幻想だとやめた方が環境のためにいいのか。全部順応管理にするのがいいのか、原生自然を何ヵ所か残す方向の方がいいのか。カブトガニを放流し続けるのがいいのか、やめた方が本当はいいのか。どっちの方向に進めばいいのか、ということについて、みなさんがいろんな可能性を作り出して皆に訴え、どれがベストか見極めていくという作業が必要になるし、これからの授業はそのための素材になります。


開講にあたって
環境三四郎によるプレゼンテーション
ゼミ