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不安をあおる消費者情報の背景〜洗剤・化粧品分野を例に〜

大矢勝教官

はじめに

今回のテーマ講義は「常識を、見つめ直す」ですけれども、その中で私は「石けんがいい、合成洗剤は悪い」というような話題、つまり消費者情報はどうあるべきかについてお話したいと思います。
特に私は、間違った情報や不安感を煽るような情報に問題があるのではないだろうか、という視点で研究や活動を行ってやってきましたが、その中でみなさんの中でも様々なメディアに接する中で「こんな変な情報を出してけしからん」というように感じられる方も多いかと思います。ただ、その時に単に「けしからん」という不快感というようなものだけで終わってしまうと、結局人の足を引っ張ってしまうことだけに終わってしまいます。それを社会の中でいかにして、どのような方向にもっていけばいいんだろうか、ということについて、そして、自分の不快感というものだけではなくうまくそれを自分の中で組み立てていくにはどうしたらいいか、という点について、私なども悩んでいるのですが、お話をさせていただければと思います。

今日は、不安を煽る情報、その問題点。どういったところが問題なのか。また、問題の事例としては洗剤問題と化粧品関連でどのような問題があるのかということを説明し、その問題の背景、つまり過去の歴史的背景があって今の不安を煽る情報が問題になっているのかということ、そして今後の課題としてどのようなものが挙げられるのかといったことについてお話したいと思います。

1.不安をあおる消費者情報がなぜもんだいになのか?

まずは、不安を煽る情報の問題点、ということで見ていきます。
すると、ひとつ注意してみる必要ある点があります。それは、人が情報に対してその問題点を指摘するような行為、単に誤った情報に対しての不快感というもののみが動機であってはいけないということです。それはつまり、今後望まれる社会のシステムの中での不安・扇動情報そのものの問題点を明確にする必要があるということです。社会システムの中での不安を煽る情報のどういう点が問題なのかというと、環境問題自体が非常に深刻化しているということ、そして社会が高度に情報化しているという点にあると思います。環境問題や安全という概念の背景が非常に複雑になっている。そういう場合には、高度情報化が進むにつれて環境問題対策をする際に、情報環境を活かしていく必要があります。そのような社会システムを構築していく上での最大の障害、そしてそのシンボルとしてこの不安先導型情報を位置付けるということで考えていただきたいと思います。単に不快感だけで終わるのではなく、社会をどのように持っていくことが環境問題対応として望まれるのか、という視点から見ていきたいと思います。

2.実際の問題点:洗剤・化粧品分野より

1)「洗剤v.s.合成洗剤」論争より

その一例としまして早速、洗剤問題がどういうものなのかお話したいと思います。
「洗剤論争」というのは、具体的には合成洗剤が人体に毒性があって環境を汚染するということを理由にして合成洗剤を排除して石けんに切りかえるべきだ、とする運動です。そしてこれは1960年あたりから日本の中でずっと続いているのですが、結果としていま現在では、合成洗剤と石けんを比べたならば環境・安全性という点に関して合成洗剤は悪く、石けんのほうがいいという考え方が一般的だと思います。そして、そのような考えで合成洗剤に反対するという運動があります。それに対して合成洗剤を擁護する立場は、合成洗剤も石けんも環境・安全性に関して基準を満たしているので問題はない、というように言っています。合成洗剤反対派は合成洗剤が有害だとするのに対して、合成洗剤を擁護する側は、「いやいや、石けんも決して悪くはないが合成洗剤だって環境・安全面で問題ないですよ」というように言っているのが実情です。これを簡単にまとめてみますと、合成洗剤に反対する側というのは環境への影響・人体への影響という点で石けんは〇だが合成洗剤は×です、という形で主張がなされています。一方で、合成洗剤を製造・販売している業界やその他様々な合成洗剤を擁護する立場の人は、石けんも〇だが合成洗剤も〇ですよ、と言っています。このような図式で合成洗剤反対と合成洗剤擁護派の間での論争が過去ずっと続いてきたわけです。そしてその結果としまして現在では、少なくとも日本国中では合成洗剤は環境面や安全面についてやや問題があり、石けんの方がやさしいように捉えられているというのが実情かと思います。

しかし、実は、これはそんなに単純なものではなく、これからの複雑化する環境問題に対応するということを考えますと、もう少しレベルの高い、単に「〇だ、×だ」という形ではない総合的な考え方が望まれるようになってきました。それの一例としまして、各種性能の比較ということでここでは石けんと合成洗剤、特に合成洗剤反対派には嫌われているLAS(石油系合成洗剤)と、「より良い」といわれる植物系の合成洗剤を含めた三つのグループ(石けん、植物系合成洗剤、石油系合成洗剤)に分けたとしますと、必ずしも「どれがいい、どれが悪い」というようなことは言えません。ですから、様々な側面でいい悪いということは変化してきますから、これらを総合的に捉えて「この地区では石けんがいい、こういう地区では合成洗剤でもいいのではないか」といった考え方が進むようになってきました。特に1990年代以降は「地球環境」というように「環境」に「地球」がついた時代を迎えてきたわけですけど、このように「地球」という視点から捕らえてみますと、この石けん側はますます不利になってきたという現状があります。
例えば、LCA(Life Cycle Assessment)に関連したLife Cycle Inventory、つまり洗剤を製造するのにどれだけのエネルギーが消費されるのかを検討したものがあります。そこでは製造プロセス、輸送、原料のもともと持っているエネルギーの合計を計算したものですが、それを見てみると合成洗剤1トン作るのに55〜73ギガジュールかかるのに対して石けんは52とか47といった値が出ています。この1トン当たりのエネルギー消費量だけみてみると石けんの方がちょっと少ないな、ということになります。ところが、洗濯1回でどれだけエネルギーを消費するのか、ということを比べてみますと、合成系のものが500とか300キロジュールなのに対して石けんは1000を超えてしまう値が出ています。このように消費エネルギーというまさに「地球」環境問題といったものに直結した視点から見たならば、この合成系と石けん系のうち合成系のほうが望ましいというような見方が出来るわけです。ですから一概に環境に関しては合成洗剤よりも石けんの方が上回っているというような見方はもはやできないだろう、というのが実情だろうと考えられます。特に、現在世界の中での洗剤の原料の需給予測を見ますと、下水の完備しているような先進国では生分解性の高い洗剤を使う必要がないのに実際には使われており、逆に下水のないような場所では生分解性の高いものを使うべきであるのに対して現状としては使われていません。そして2005年には西欧・北米・日本では石油由来の洗剤の使用率が更に下がると考えられており、アジアなどの地域では洗剤使用量の大幅な増加が予測されていると同時に、川に直接流すのを避けた方がよいタイプの洗剤の使用量も大幅に増加すると考えられているのです。つまり、石油系の合成洗剤は値段が安いという理由で下水道の完備されていない地域で使われており、その近辺の河川を非常に汚染しているという現状があります。世界的なバランスを考えるならば、本来ならばアジアのように下水道の完備されていない地域では植物系のより生分解性の高いものをつかうべきなのです。ところが、それらの洗剤が多く使われているのは先進国においてなのです。

ここでは、地球環境問題というレベルで石けんと合成洗剤を比べてみた場合には石けんが必ずしも有利にはならない、そして油脂を原料にするというのは世界全体でみたときにはどちらかというと贅沢であるということをお話しました。

ここで少し視点が変わりまして、ここでは安全性に関連した情報・記述に関しての問題点について説明したいと思います。まず、合成洗剤はなんとなく体に悪いイメージがあると思います。特に、発ガン性や発ガン補助性、催奇形性、肝臓障害などで合成洗剤が否定されることがしばしば見られますが、これらの有害性は専門家レベルでは否定されています。特に合成洗剤に問題があるという訳ではない、という研究結果が一般的に科学的には結論付けられています。しかし、一般に書店で販売されている洗剤に関連する書籍を見てみると、合成洗剤の有害性を肯定している書籍というのは70%以上(発ガン・発ガン補助性が70%以上、催奇形性も70%以上、肝臓障害は90%以上)あり、特に激しく非難している書籍の割合は、発ガン・発ガン補助性が32%、催奇形性が25%、肝臓障害では89%となっています。これは何をいいたいのかと言うと、いわゆる専門家によって科学的に否定されている有害性では、一般消費者を対象にした書籍の中では非常に高い割合でその有害性が肯定されている実情があります。これなどは、消費者情報としての典型的な問題であると言えます。

洗剤のほかにも、化粧品関連の書籍を調べたところ、発ガン・発ガン補助性、催奇形性、などは、記述があるものは100%その有害性を肯定しています。そしてその出所を見ますと、洗剤関連の書籍を参考として記述されているものがほとんど、ということが分かります。また、化粧品関連の書籍の中身を調べてみると次のようなことが分かってきました。調べた書籍の著者を大きく3つ、「ベンチャー企業系情報」、「生産者糾弾型消費者情報」、「一般科学情報」に分けてみます。前2つはそれぞれ「大企業の商品の有害性を強調し、自社の自然派商品を勧める」、「大手メーカーの商品および大メーカーの姿勢を責めることで消費者運動を啓蒙する。背景には、化粧は基本的に不要とする姿勢」が見られ、それぞれ調べた本のうち、39冊と72冊ありました。それに対して医者や科学者による「一般科学情報」は6冊のみ見つかりました。しかもこのような本は、論争に関してはあまり触れません。

2)化粧品関連

化粧品に関連しては、一般の書籍がこのような割合になっているので化粧品に関して安全性や環境面について勉強しようという勉強熱心な人ほど、前2つの種類の型の情報に接触する可能性が高くなるのです。私達としてもつらい思いをする例としては、学校の先生が生徒により正しいことを教えたいと勉強熱心であるために、科学的には間違った合成洗剤の恐ろしさを教えてしまうということがあります。これをどういう風にしたらいいか、ということをみなさんにも考えていただきたいと思います。また、化粧品関連の問題としては、アトピー性皮膚炎があります。アトピービジネスと表現されるものですけど、ステロイドが悪魔の薬であるということで皮膚科医の信頼性をまずなくし、アトピー性皮膚炎を難病として不安感を誘い、民間療法を押し付ける商法が社会的な問題となっています。確かに、ステロイドは誤った使い方で昔被害が出たことがありました。しかし、その結果として、社会全体としてステロイドに対しての拒否感が育てられ、アトピー性皮膚炎に関しては一番の専門家である皮膚科医との信頼関係をぶつっと断ち切られました。そして、小さな子供がアトピー性皮膚炎になった時にその母親が自分の不注意でこの子をこうしてしまったと不用意に自分を責めてしまう傾向があります。その部分に見事につけこんで変な療法を押し付ける悪質な商法が蔓延してしまっている問題があります。もちろんステロイド自体がいいというものではありませんが、現時点ではステロイドに対しての拒否感が全国民的に広がっており、医師がステロイドを使う際には段階的に非常に注意してつかうようになっています。ですからよほど変な医師にかからなければ大丈夫だろうと考えられます。このように、ステロイドはとにかく悪いということで医者との信頼関係をなくし、不安定に陥れた上で変な療法を押し付けるような商法が蔓延していることも消費者情報の大きな問題点です。

しかし、このような問題に対して単なる怒りや不快感といった感情だけで対応していては、なんの解決にもならないと思うのです。ですから、そういう際にはなぜこのような問題が生じるのかということを考えていく必要があると思います。その点について次に説明したいと思います。

3、問題点の背景

1)情報に関する価値観の問題

まず、私達の社会自体が変化しているということを捉えなければならないと思います。情報の価値が非常に高まってきたことを念頭に置かなければならないと思います。従来の社会では情報の価値がモノの価値に比べて非常に低く評価されてきました。例えば、窃盗ということと違法コピーを比較してみましょう。十円の化粧品を店や人から盗るときは非常に罪悪感を感じます。しかし、レンタルビデオの店から借りたものをコピーすることを考えると、私達は情報を盗むことに関してはモノを盗むことに比べては罪悪感を感じにくいのではないでしょうか。つまり、私達の価値観では情報というのはものよりも低く位置付けされているように思います。それは、裏を返せば、不良商品と誤情報を比較した場合、私達が買ったものにごみが混じっていた場合には消費者センターやメーカーに対して文句を言いに行くのですが、誤っていたり人をだまそうとしている情報に対してはあまり怒りを感じません。モノに対しては非常に厳しいのですが、情報に対しての価値観が非常に低いというのが問題の根源にあるのではないかと思います。特に日本人は、情報に対しての権利意識が少ないとよくいわれていますが、一般消費者レベルでの情報の価値についての認識を改めていかなければならないのではないかと思います。

2)消費者運動との関連で

次に、日本の消費者運動の側面から捉えてみますと、誤った情報が流されやすい状況が背景にあるということを少し説明したいと思います。日本の消費者教育・運動・団体はアメリカで先にあったものが入ってきたものです。そこで、アメリカの方の消費者運動の流れを見ますと、2つの波があることが分かります。1つ目は、コンシューマリズム第三の波で1960年代にありました。これはラルフネーダーの「どんなスピードでも自動車は危険だ」に代表されるもので、生産者の責任を明確にし消費者保護意識を高めました。それまでは消費者がものを買って何か事故が起きた際には買った人の責任ということになっていたのが、「商品についてはある程度はその生産者に責任があるんですよ」ということで、生産者のその商品に対して責任を追求できるように消費者を団結させたものです。そして、米国ではコンシューマリズム第四の波ということで、1970〜1980年代に、コンシューマリズム第三の波での過度の対立関係の反省より、三者合意(Happy Triangle:消費者+生産者+行政)を行ってどのように消費社会を築いていけばいいのか、という流れが出てきた訳です。

さて、それぞれの特徴を見ますと、第三の波型の運動では、何よりもまず消費者を生産者に対して対等な立場に置くために消費者を団結させることが重要になります。そういう場合には情報の正確さよりインパクトが重視され、一人でも多くの国民の賛同を得ることが重要となります。「〜には危険性があります」といったものではなくて、「〜は毒物なんですよ、あなたは殺されているんですよ!」というインパクト重視の情報の方が、この運動にとっては非常にプラスになります。しかし、情報の質が低下するというデメリットがあります。そして情報の質が低下すると、消費者を守ろうとする運動体が質の低い情報を利用するという場面がしばしば出てきてしまいます。消費者団体のほうが、悪質な情報を使った商法に対抗できません。また、どうしてもインパクト重視であると身近な問題が中心となってしまいますから、グローバルな視点がどうしても欠けてしまいます。

それに対して、第四の波は消費者・生産者・行政が連携して新たな消費社会を築こうという運動ですが、これもいいことばかりではありません。連携を重視すると言うことは、情報の正確さや公正さが重視されるようになってきます。そして、そんな形でやっていては消費者運動としては機動性に欠け、賛同も得にくい。悪質業者への反発力や消費者団体の団結力も低下してしまいます。例えば、このタイプの運動で水俣病のようなタイプの問題に対応していたならば、被害はもっともっと広がっていたでしょう。ですから、常に第四の波がいいということではありません。つまり、水俣病のような特定の企業が加害者であって、消費者が被害者であるという構図が明確である場合はこのコンシューマリズム第三の波型の消費者運動が非常に効力を発揮します。それに対して、「地球環境といった問題に対応しよう」、今後どのような消費社会が望まれるのかといったことを考えていく場合には、第四の波型の運動が望ましいと考えられると思います。日本の場合、1960年代に機動性があって正確さに問題があるコンシューマリズム第三の波が非常に早く入ってきました。一方で、コンシューマリズム第四の波型の運動は1970〜80年代に入ってきませんでした。なぜか。1960年代に第三の波が入ってきた際に日本の消費者運動のリーダーはみんながみんな第三の波に染まってしまったわけです。それで、第四の波は全く入って来ない訳です。ですから日本の消費者関連の専門家でも第四の波を知らない方が非常に多いです。そして第三の波には消費者と生産者の対立構造しかないために日本で消費者運動というと、何か煙たがられる部分が多い。日本では第四の波型の運動がなかなか発展していないというのが日本における消費者運動の問題点だと思います。

4.今後の課題

1)「覚える科学」から「考える科学」へ

以上のような形で不安を煽る情報がなぜ世の中にはびこってしまうのかという現状を説明しましたが、それでは、どういうような課題があるのか、ということで話を進めていきたいと思います。
どちらかと情報の正確さに疑問が残る日本の消費者運動や消費者環境では、「科学性が必要」ということがよく言われますが、その「科学」というものに関して、どのようなものが科学なのか考える必要があるのではないかと思います。ここでみなさんに考えていただきたいのが、2種類の科学です。その1つは化学、生物学、医学にあるような事項、専門用語をとにかく覚え、使うというものです。それに対して、もう一方の科学は論理的に物事を考えるという科学です。従来は前者の科学が多く見られました。ですから一般消費者レベルでは、書籍の中でも添加物や界面活性剤の名称などがズラーっと並べられ、そのような情報に弱い消費者は圧倒され、信じてしまうようなことがあると思います。今後はむしろ科学といいましても覚える科学から考える科学が重視されるべきではないか、情報を見比べて論理的に判断、選択していく姿勢が望まれるのではないかと思います。環境教育の中でも、考え方などの直結する場面では個々の固有名詞に注目するのではなく、総合的に捉えて論理的に判断・選択するという姿勢です。それでは、ここで論理性が備わっていないとどのような問題があるだろうかということで次の例を見ていただきたいと思います。

※ここでスクリーンにAとB二人の会話が写しだされる
A:化学物質Kについて毒性試験を行った結果、特に問題は認められませんでした。
B:では、Kは無害なんですね?
A:無害と言い切ることはできませんが、毒性試験で問題は認められませんでした。
B:曖昧な言い方ですね。消費者の健康に関わる問題ですよ。商品として販売するの
  ですから、100%の安全性をあなたが保証すべきではないのですか?
A:・・・。

最後にAさんはどう答えたらいいのでしょうか。
実は、化学物質の安全性に関してのやりとりでは、Bさんの聞き方は絶対にやってはいけない禁じ手なのです。科学を少しでも知っている人ならば「これを言ってはおしまいですよ」というものなのです。それは、「無害」は証明できないということなのです。それはなぜかということを考えるために100%の安全性を保証するにはどういうものが望まれるのかということを考えてみましょう。例えば、炭水化物を例にとります。炭水化物は安全でしょうか。摂りすぎれば糖尿病や肥満になりますね。いくら食べても無害ですよ、というものには当てはまりませんね。油脂も、通常のタンパク質も、摂りすぎれば何らかの悪影響が起こる可能性の高いものばかりです。いくら摂取しても何の悪影響もないような、そんな物質あるでしょうか。水にしても、超純水というかたちにしてしまえば金魚でも生きていられません。ですから「100%の安全ですよ」ということは科学者レベルでは決して言えるものではないということなのです。そして、また、1000人に一人、100万人に一人の確率で起こるリスクがあるとして、その危険性をどのように求めることができるでしょうか。通常は、こういったものはより高い濃度で動物に与えて発ガン性などを調べて計算しますが、間接的な計算をしている時点で100%の安全性は保障されません。ですから、そういったリスクを直接求めることはできません。また、単独では害がなくても他のなんらかの物質と相互作用して悪影響を及ぼす可能性があります。他の無限にある物質との相互作用を調べることは物理的に不可能です。ですから、そういう意味で、完全な安全性を科学的な証明をすることは不可能なのです。可能な表現として、「通常の条件下でほぼ問題なし」がせいぜいなのです。Aさんのような「無害と言い切ることはできませんが、毒性試験で問題は認められませんでした」程度のことしか言えないわけです。この程度の言い方に対して「曖昧な言い方だ、100%の安全性を保証しろ」という形で責められるとしたら、安全に関しての科学的なやりとりが全くできないということになってしまいます。今ここにお話したことは論理性の問題だと思うんですけれども、消費者レベルでも今見ましたような問題が多々あります。

2)新たな価値観としての「地球環境」

そして、論理性が重要ですよ、ということの続きとして、環境・安全といった問題が非常に複雑になってきたということを再認識する必要があると思います。
ここで環境問題全体をどのように捉えるのかということで一つの考え方を示めさせていただきたいと思います。環境情報を分類する尺度として「生活―地球」軸「科学―社会」軸の2軸を想定して、各環境情報を考えるものです。例えば、水道水中の有害物質は科学的な問題であって、かつ私達にとって身近な問題ということになります。また、身近な問題で社会的な問題としてごみ分別の方法などがあるでしょうし、科学的でグローバルな問題としては地球温暖化があるでしょう。社会的で地球レベルの問題としては途上国の人工問題であったり南北問題があります。このように考えてみますと従来、私達消費者はコンシューマリズム第三の波型にかなり大きく支配されていました。この考え方というのはこの表においては生活に関する情報に関してのものです。自分達の安全・健康といったものが被害を受けるといった内容に対しては非常に敏感であります。自分達の身の回り、そして自分達の行動に関しても厳しい目を持っています。ところが、より広範囲な問題では関心の度合いが少なくなっているという傾向があるようです。特に生活―地球という軸で見た場合、生活よりに関心の偏りがややあったように思われるのです。

日本で地球環境レベルの問題が論じられるようになったのは1990年前後です。それまでというのは、生活に身近な問題にしか目がいっていませんでした。しかし、環境問題の複雑性というのは片方を優先させると軸の反対に位置する項目に害が出てきてしまい、逆を優先させると害が出てくるのも反対になるという対立関係というものがしばしば生じてしまうということだと思います。例えば、水道水の有害物質を例に取ります。まず、私達の飲む水道水にはまず発ガン物質が入っています。その事実自体は、悪いことです。ではどのようなことが望まれているのかというと、それは水道水を浄化することが望まれます。ここで、汚れた水をきれいにするにはエネルギーが必ずかかります。そしてエネルギーを使うことは地球温暖化という地球レベルの問題につながってくるのです。石けんの問題をめぐっても、同様の対立関係が根本にあります。例えば、1983年に書かれた石けんを勧めようとする本には、神奈川県の学校給食での石けん使用を推進しようとする意見があります。この「安全性と環境汚染」、どちらも身近なレベルでの話ですが、実際のところ石けんが安全性や環境にいいかどうかの点は別としても「昔から石けんを使っているし、石けんのほうが安心する」という考えが正当だと考えるならばこの意見はOKだと思います。環境汚染に関しても川に住む生き物に対しても影響が少ないのでいい、と考えるのであればいいと思います。しかし、ここの「エネルギーと経済性の点で多消費型だと言ってますが、しかし、…」という部分はどうでしょう。経済性はともかくとしても、エネルギーを多量に消費するという洗浄方式は地球環境次元でものを考えようとするときはこの部分の「エネルギーの多消費型である」という点は非常にマイナスになってしまいます。この例から考えて欲しいのは、地球環境といった新たなものさしが入ってくる以前と以後とで消費者がもの考える土台に大きな変化が生じているということです。

先ほど示しました表の軸は必ずしも成立するというものではないですが、これからの環境政策に取り組んでいこうとした際には、どの部分に力を注ぐべきかということをよりよく考えなければいけないと思います。特に日本人に欠けているのは社会的で地球規模な問題である途上国の人口問題や南北問題に対する認識です。そのような部分を考えるのが、先進国の役割になってくると思います。私達は地球上全体の平均的なエネルギーでは暮らせない生活をしています。その生活を元に戻すかわりに、少なくとも地球全体での資源配分はどうあるべきかということを考える必要があるのではないかと思います。その分かりやすい事例として、石けんから離れますが環境ホルモンを例に取ると、今までマスコミなどで注目されてきたゴミ中のダイオキシン問題などがあります。しかし、地球レベルということで見た場合、これらの環境ホルモンなどの有害物質というものは、途上国の農薬が非常に大きな問題になってます。例えば、DDTといった農薬は先進国では数十年前に使用も生産も禁止されていますが、つい最近まで又は現在まで使用しているという国があります。そしてこのような有害物質は一度環境中に出されると分解されずに生態濃縮を繰り返し、地球上に広まります。こちら国では殺虫剤が買えずにマラリアで人が死んでいる経済的な問題のために有害性が分かっていてもDDTといったものを使わざるを得ない状況です。また、廃棄物の規制が先進国では厳しいからといって様々な有害物質が途上国に輸出され、有害物質が環境中に流れ込んでしまうということもあります。

また、こういう言い方は悪いですけれども、日本人は環境ホルモンといった話題に弱いです。環境ホルモンに気をつけなければいけないのは子供を産むまでの女性なのです。子供を産んだ後の女性や男性であればそれほど気をつけなくても良いのです。これは全て自分の健康に関連しているものであり、もちろんリスクを小さくするなら子供を生む前の女性には環境ホルモンなどの残留物が少ないものを流通させるシステムを考えることもできますが、今の日本人は「環境ホルモン?怖い!」ということでとにかく自分が成人であっても何であってもそのリスクを避けます。環境ホルモンは地球レベルでの生態系への影響が一番の問題のであるのに、私達はそれを身近な問題に置きかえる傾向が強すぎるのではないでしょうか。その延長として、日本人は洗剤・化粧品といった私達の安全といった問題にあまりにも目が行き過ぎており、もっとこの軸で言う地球よりの考えも視野に入れたバランスのとれた環境に関する考え方が要求されているのではないかと思います。

今日は、洗剤・化粧品などを中心としまして、「不安をあおる消費者情報」とその背景、そして今後望まれるのではないかと私が個人的に考えていますことを説明させていただきました。みなさんに何らかの参考になれば、と思います。

ゼミ第三回
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