「環境の世紀 未来への布石V」報告書

  

第3回 日本の対自然関係史〜中国との比較を中心に

講師 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学比較文学比較文化  義江 彰夫 

 
目次
      1 はじめに
      2 インド(古代)
      3 中国(殷代〜唐代)
      4 日本(古代〜近世)
      5 むすび
  

1 はじめに
 昨年度に続き、本年度はインド・中国も考えあわせたうえで、日本の対自然関係史を再検討する。

 私たちが教科書などで習った歴史の見方は、野蛮・未開の状態から高度な文明に向かって進歩・発展していく進歩史観であった。これは18世紀のヨーロッパに端を発するという点で「近代欧米型進歩史観」といえるが、この進歩史観の中には環境問題を黙殺・そして肯定するイデオロギーが含まれていた。実際、人間は道具や火を用い、言語をあやつり、そして集団で行動を営むことで、生活の質を向上させるために、自然の成果をわがものとして取り込み、利用、支配し、そして破壊してきたのである。しかしながら、その際人間の生活の向上が自然の支配・破壊を代償として成り立っているということに対する配慮は欠けているた。18、19世紀、ヨーロッパでも進歩史観に対する批判はあったものの、そこでは、自然という代償に関しての言及は暗示を超えておらず、正面から環境問題を捉えたものとは言えず、まだまだ確立されていなかった。

 以上から、まず将来に向けて新たな歴史を描いていく上で、共有されるべき重要な歴史観の第一として、「人類の進歩(文明化)は、反面無限に増大する自然所有・支配・破壊の過程である。」という見方を提示したい。

 しかしこの見方だけでは進歩史観の単なるアンチテーゼにとどまってしまい、今後の見通しを描くことはできない。原始以来、人類は自然を壊しつつ、その一方で、それをしっかりと自覚していたのではないか。社会の質、歴史の段階によって、自覚の仕方は異なっていたものの、罪の意識はあり、破壊してきた自然との関係を修復しようとしていたと考えることができる。これが第二の見方である。

 我々が歴史の授業で学んだように、人による人の支配は大昔からあった。また、今でもその問題はついて回っているということができる。どうしたら、人の支配を揚棄することができるかについて、数え切れないほどの思索が重ねられている。このような人間支配を廻る葛藤の在り方は、先ほど述べていた対自然関係の在り方と不可分の関係にあると、私は考える。

 したがって、自然の破壊と修復という「人間の対自然関係史」という見方から「人間固有の人間支配の歴史」を再検討することを本日の講義を通して試みたい。

 また、日本の対自然関係史の特質を捉える上で、他のアジアの文化圏の社会(インド・中国)との比較・交流という視点を導入する意義は大きい。

  
2 インド(古代)
 インドでは、紀元前一千年ないし七、八百年頃までにバラモン教と呼ばれる、基層信仰に立脚した高度に思弁的な宗教体系ができていた。このバラモン教から仏教に至る宗教とは対照的な位置にあるのが「帝王学」であり、長い時間をかけて作られてきた。最終的には紀元前四〜二世紀頃、古代インドを統一したマウリヤ朝の時代に原型が作られたとされている『アルタシャーストラ』(『実利論』)に結晶する。これはまさに読んで字のごとく、帝王が国内を統治するために知っておかなければならないことを徹底的に実践的に書き上げたものである。王権を安定なものにするために、例えば、「スパイの任命と規定」「城砦の建設」といったことにまで具体的に考察が及んでいる。インドではそのような帝王学が世俗の世界では長い歴史をかけて形成されてきた。

 一方で、紀元前六世紀ないし五世紀にブッダが登場し、バラモン教の内在的な批判という形で独自の思想を展開していく。ブッダの語ったとされるものは仏典化されていくのであるが、とりわけブッダが生前語ったことをそのまま書き残したといわれているものは、『ブッダのことば』と翻訳されている『スッタニパータ』という書物である。

 ブッダは釈迦族の王の皇太子であった。29歳のときに迷いに迷ったあげく出家するが、彼はもし出家しなければ、『アルタシャーストラ』という書物に結晶するような帝王の道を歩んだはずである。しかし、その本質を見抜いたが故にブッダは「これは人間の本来の生き方に背くものだ」との考えにたどり着き、その結果、王位はむろん世俗の欲望全てを拭い去るべく出家して、悟りに到達した。物(自然)や人間に対する支配は全て欲望に発し、その欲望の元になるものを断ち切らなければ人間は悟りの道、即ち彼岸に到達できないと明言している。そのために、苦しい苦行によってたくさんの罪を償わなくてはならず、そうしてはじめて全ての欲望から解放されるとしているのである。

 以上、述べてきたように、古代インドにおいて、帝王学と仏教という二つの流れが存在した。人間は、人間に対してだけではなく、自然に対しても罪は行っているのであり、人間はその罪をあがなって行かなくてはならず、それなしに自然との関係を修復することはできないとする仏教が帝王学の内在的批判として展開されたのは非常に歴史的に意義深いということができるということができる。

  
3 中国(殷代〜唐代)
3.1 殷の甲骨文化 ―人間と自然と呪術―

 中国では自然・人間の支配とその関係破綻・修復の願いという二つの思想の潮流は、インドよりもかなり具体的にわかりやすい形でたどることができる。紀元前千六百年から千百年ぐらいまで約五百年間続いた殷の時代には、漢字の元になる甲骨文字と呼ばれる独特の文字が生まれていた。その当時の人々は大自然の中に神がいると考え、その神を帝(てい)と呼んでいた。人間が生きて行くために、様々な社会的な実践を起こそうとする際、常に動物の骨に自分たちの願望を甲骨文字で書き込み、自然を統御する神、即ち帝の意向を聞いたのである。その骨の焼け方を見て、吉とでれば行動に出て、凶とでれば慎むという対応をしていたことが、長年に渡る甲骨文字の研究を通して次第に明らかになってきている。以上から注目したいことの一つに、当時の人々は常に大自然の意思に背かない限りで自然に働きかけようとしていたことである。しかし、もう一つ重要なことは、大自然を統御する自然界の神である帝の意思を聞くことができるものは、人間界では一人しかいないと考えられていたことである。それが王である。甲骨の占いは王が自ら行っていた。王が自然と人間との間に立ってその関係を調整する能力をもった存在であ

るといえる。また別の言い方をすれば、神霊の声を聞き分ける能力をもっているが故に王たりえ、人々が王の統治に服し王の支配を正当化できるという構造になっていたのである。

3.2 周・春秋戦国時代

 やがて殷を滅ぼして周の時代がくるが、周という王朝は、殷が歩んできたマジカルな神霊の力を媒介にして社会統合をはかる路線から、新しい路線へと模索していた。その原形が後に儒学の根本経典になる『儀礼』とか『書経』などの書物になるものであり、そこには確かに神をまつることは重要な問題として扱われてはいるが、極めて儀礼化・儀式化されている。周王朝の社会統合は、社会底辺が呪術から脱出できない段階で、このような方向で進められたためやがて統合力を失い、諸侯の乱立する春秋時代を迎える。そのなかで周の開明思想を発展させて、独特かつ本格的な中国の帝王学の礎を築いたのが、孔子の『論語』であるといえる。

 例えば、『論語』のなかには、「子いわく、鬼神を敬いて之を遠ざくるは、知というべし。」という有名な文言がある。「鬼」とは死者の霊魂であり、「神」は普通言われている神であり、つまり鬼神とは神霊のことである。神霊は敬遠して不問に付すというのが孔子のなすべきまつりごとの在り方であった。また、「子、怪力乱神を語らず。」、つまり、妖怪変化、マジカルな霊力は問題にしないことを明言している。以上から孔子は、まず神霊を問題にしないで社会システムを維持していくという限りで人間中心主義の思想家であったと確認できる。

 人間関係が異なれば、対自然関係が違ったものになってくることは前述の通りであり、孔子は動植物(自然)を人間に劣るものという立場をとっている。その事がわかるのは微子第十八という編の一節である。

「鳥獣は与に群れを同じくすべからず。吾れは斯の人[天下の人]の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん。」
という言葉がそれである。ここでは鳥獣との共生自体も否定しているのであり、つまり、自分は天下に人間として生を受けたものとしてあらゆる問題を人間の立場で考えてゆきたい、鳥獣と同一に扱うなどとんでもないと、きわめて人間中心主義的に述べているのである。

 このように孔子は問題を全て人間界に絞り込んで、その上で人間は全て平等というのではなく、「父子」・「長幼」、そして関係を社会全体に拡大した「君臣」の序があり、それぞれの身分の違いに応じて目上の人には礼をつくし、それを前提として、上に立つ者は臣下や庶民に対して徳をもって答えていくべきであるという思想体系を構築することになる。これと不可分のこととして、自然のものを富として身辺に集めることは、それ相応の徳があれば全く問題ないと承認する。つまり、富の蓄積による貧富の差は条件つきで肯定的に捉えられているのである。

 このように、孔子の思想は人間中心主義的、家父長制的な王権統治のイデオロギー体系をはじめて本格的に作り出すことに成功したものといえる。

 なぜこの時代にこのような思想を打ち立てることが必要かつ可能になったのかという理由は、王による安定した統治論理の要求という時代背景にもとめることができる。つまり、甲骨占いといったマジカルな要素を多く含んだまつりごとには、もはや王の絶対的な統治を正当化する根拠は見い出せなくなり、合理化された統治の論理が必要とされていたのである。

 これから百年余り経った紀元前四世紀頃、荘子が登場する。殷の時代の神の媒介としての自然との共存という考え方をもったものは周の時代にも春秋時代にもたくさんいた。社会の底辺になればなるほどたくさんいた。公権力を作ろうとしたものは孔子の思想を迎え入れたが、しかし社会の底辺には憤満やる方ない気持ちが鬱積していた。その鬱積した気持ちをを儒家の論理水準を摂取しつつ高い知的水準の中で代弁するものとして生まれてきたのが荘子ないしはそのグループであった。荘子は孔子の枠組みをある程度踏まえた上でそれと全く逆のことを言っているからである。三黄五帝といわれる(儒家では君子の模範とされる)聖人が登場し、是非、善悪の別をわかって身分の差をつけた、つまり倫理と身分制を導入したために人の世は堕落したと、『荘子』は警鐘を鳴らして、儒家の理念を全面的に覆えしているのである。また、この考えにたてば、人間相互のみならず、動植物とも平等という結論が引き出されるのも必然である。孔子は私利私欲に走ることには否定的であったが、道を行った上で得られるのであれば富を持つことを肯定していた。ところが、『荘子』は聖人の道を否定した上で、「無欲であることこそ肝心だ。無欲でありさえすれば、人間はむろん禽獣とさえ等しく生活することができ、それが理想の世界なのだ」と言っているのだから、孔子の作った土俵に乗っかった上で可能な限りの批判を展開した、反人間中心主義・ユートピア的万物平等主義に支えられた思想体系と位置付けられる。

 やがて戦国末ごろ、『荘子』を権威付けるものとして『老子』が編纂される。戦国末までにいわゆる老荘思想が出揃ったのである。

3.3  漢代

 しかし、紀元前三世紀に秦による統一が行われ、これが極めて強圧的であったために、わずか一代で滅び、そして直後に前漢が登場し紀元一世紀まで続く。この前漢の時代、特に武帝の時代に孔子が切り開いた帝王学が他の様々な思想を取り込んで、儒学を頂点におきながらそれらを巧妙に接合し大成した。その結果、儒学は漢帝国を支えるイデオロギーとして揺るぎないものとして成長していった。しかしながら、二世紀後半になると、漢帝国の社会統合力は揺らいでくる。その中で社会底辺の民衆を相手にしながら、主として老荘思想を手がかりにし、その老荘思想にはなかった実践論を持ち込んで新しい思想・宗教が生まれてきた。それが、道教(原始道教)である。そうして、太平道を説いた張角や五斗米道を説いた張魯は黄巾の乱を起こす。

 太平道は『太平教』という経典を基にしていた。『太平教』は君子から人民に至るまで全て人間は過(とが)を生涯のうちにつくっている、それを償っていかなければ破局が訪れる、というある種の終末論を説いていた。だが、同時に罪を償えば終末をくぐり抜けて理想の世界が生まれると説いている。太平道や五斗米道を唱えたものの考え方には、共同体とは違った個人の目覚め、罪の目覚め、それに基づく罪の償いがある。老荘思想を母体にしながら、二世紀後半黄巾の乱が起こる中で、中国の基層信仰を土台にする原始道教と呼ばれる宗教は現われた。老荘思想は神を問題にしない。そして上述のように思弁的で、実践論がないといっても過言ではない。しかし前述した二つの思想(太平道・五斗米道)は自然の中に神を見い出し、極めて実践的である。

3.4  三国・南北朝から随・唐へ ―儒教・道教・仏教の葛藤―

 三国から南北朝、すなわち三世紀から六世紀にかけて、中国大陸は様々な南北王朝にわかれ、どこの王朝でも行き詰まると仏教ないし道教が導き手となる反乱が起こる。仏教も道教も人間の平等をその根底にしているから、当然王朝の統治が危機に瀕して威嚇的になればそれに対する反逆の引き金として全面に出てくる。しかし、仏教と道教は引き金にはなるが、新しい王朝自体が仏教と道教だけによって正当化されることはなかった。

 前述したように漢の時代に中国大陸を統合する王権のイデオロギーの体系として儒教を頂点とした思想体系が他の思想を巧みに接合して組み立てられていた。しかし儒教は天子の徳がなくなれば他者に取って代わられてよいという易世革命の思想を持っているので、反乱を起こして新しく生まれてくる王権を支えるイデオロギーになりうるフレキシビリティを持っていた。このような事情で、引き金は仏教や道教であったが、体系化は儒教でなければできなかったのである。

 この構図は隋と唐が天下を統合したときにも基本的には同じであった。仏教と道教は随と唐においては南北朝に比べてはるかに国教として重視されていたが、それでも統治の基本は儒教に支えられていた。農民など社会の底辺に位置していたものは、仏教・道教が国に取り込まれてしまっていたことで支配に正面から異を唱えることはできなかった。その代わりに彼等が行ったことは、この頃に盛んになってくる放生会という営みである。放生会とは死にかけた動物を買い取って野山や池に放つ行為のことで、これを行うことにより今まで自分が犯してきた殺生の罪が帳消しになる。このように分かりやすく、容易に実践できる営みであったので、社会に広く普及・定着していった。しかしこのためかえって、当の王朝は敏感であり、しばしば放生会を王権が主催し骨抜きにしようとした。

  
4 日本(古代〜近世)
(講義においては、時間がなかったということで非常に簡略にしか説明されなかったので、ここでは、講義のレジュメ、事後ディスカッション、先生の著作を踏まえた内容も盛り込むこととする。)

4.1 弥生・古墳時代 ―呪術でつながれた人間と自然―

 縄文時代まで遡ってこの問題を具体的に検証することは困難ではあるが、弥生時代になると、かなり具体的な物や文献によって検証することが可能となる。当時人々は集まって社会的な取り決めをするときには、骨を焼いて吉凶を占った、つまり甲骨を焼いたのと同じようなことをやっていたと『魏志倭人伝』に記されている。同書に邪馬台国の女王卑弥呼は「鬼道を事として、能く衆を惑わす」と明記されているように、いわば中国の殷の時代のようにシャーマンとして人間界の頂点にある存在であり、天の声を聞いて占いをやり、自然の反撃を浴びない限りでの自然支配をはじめていたことを確認できる。

 また、日本では、弥生から古墳時代にはいると、共同体を単位としてその族長がリーダー・シップをとる形で積極 的な自然開発をしていたということが確認できる。しかし、その自然開発は歯止めのないものではなかった。彼等は太古の昔から、あるところまでいくと神(自然)の報復をうけることを知っていて、必ず罪を償う。神への捧げ物はそのような神への罪を償う気持ちから生まれてきたのである。これは仏教が問題にする個人的な罪の償いではなく、共同体的な意識であり、やがて仏教の罪の意識を受け入れる一つの前提になっていった。

4.2 律令国家の建設

 この時代は建て前としては中国型の儒教理念を全面に掲げた国家を作り、そのために条里制を敷き、班田収授をおこない、そのために巨大な用水・排水の施設を設けるといった自然征服が行われた時代である。

 この時代地方豪族で郡司に抜擢されていた人達は皆ほとんど例外なく国造と呼ばれる人達であった。この国造たちの地方支配は小規模な神を祭りながら生活をしていた共同体より大きな神を掲げることによって広域的に統合することで成り立っていた。

 したがって、律令国家は一方では確かに儒教的なものや中国の具体的な土木技術や法制度を導入したのだが、社会底辺のマジカルな共同体の中に埋もれている人達の意識に則してまとめあげていくには、上にあげたような郡司たちの統合方式を国家的規模に拡大・編成し、宇宙と国土統御する王権のもとに収斂することが必要だったのである。律令国家にはある意味で、殷が行っていた統治と非常によく似た側面がある。と、同時に中国の最新の統治のノウ・ハウをも持っていた。文明の頂点と未開の底辺が非常に複雑に絡み合った複合体をなしているのがこの時代の国家と社会の実態であった。

 以上でわかるように、王権が地域の豪族や民衆を統治できるのは、以上のような形で地方豪族の祖霊の神々ではどうにもならない宇宙とそのエネルギーを統御する能力を持った大自然の神々を背後に戴いているからである。だからこそ社会内的にも受け入れられざるをいなかったのである。

 しかしながら、この間仏教が鎮護国家のみならず民間レベルでも急速に浸透していったことは、例えば行基の民衆教化活動一つをとってみても明らかである。共同体社会がもともと持っていた自然の神に手をかけて殺(あや)めたという潜在的な罪の意識が仏教とドッキングし、中国の隋・唐の影響もとに七世紀末から盛んに放生会が行われるようになった。

4.3 中世から近世へ

 律令国家の時代以来、このようにして王権のほうは儒教及び体系化された神話によって人間支配と社会統治の正統性を主張し、民間は基層の信仰と仏教を結び付けてこれに対する抵抗を多様な形でしていたのではあるが、中国と違う点は、少なくとも中世までは、日本では儒教が社会的に根付かなかったということである。したがって、儒教の家父長制的親族構造を基礎にしていたが故に打ち建てられていたハイアラーキカルな人間中心主義は、日本ではなかなか根付かなかった。

 近世にはいると、中世とは違う新しい動きが二つ出てくる。一つは中世以来の課題である、武士による全社会統合(天下統一)が信長、秀吉、家康らの主導の下に最終的に完成したことである。武士は人殺しをもって職業としているものであるから、心の一隅に深い罪業意識と信仰心を抱えいた。だからこそ、一方で、その意識に打ち勝つ極めて冷徹で人間中心主義的な考え方を求め、身に付けていた。もう一つは、中世の後半から江戸時代にかけて、社会の極度の分権化・多様化と不可分の関係で交易経済が急速な勢いで展開してきたということである。その結果、西洋と同様、資本制的生産と交易の発展が必然的に生み出す人間の神仏離れが生まれてくる。

 こうした近世社会をリードする武士と町人の世界に出自を異にする人間中心主義すなわち合理主義が開花し、相互に作用しつつ一つの時代精神となって展開していく。人間中心の政道論と生活倫理を説く儒学が、この時代に武士と町人を中心に本格的に理解・摂取された。

 しかし、そのような状況の中でも、きわめてマジカルで未開な段階からの人間どうしの平等な関係、人と自然との共生の観念は社会の底辺では依然伏流水として根強く生きていたため、それがこの時代になるとインテリの手によって論理化されるようになってくる。例えば、水田開発や自然災害等に関連して言えば、『農業全書』に代表されるような農書がたくさん作られ、治水工事の仕方や植林の仕方など、破壊された自然との関係の修復の議論が盛んになってくる。また、人間と自然との根本的に調和がとれた社会を作るべきだというユートピア的な思想が町人から出てくる。例えば、山片ばん桃の『夢の代』、安藤昌益の『自然真営道』や『統道真伝』等はその代表である。

  
5 むすび
 このように江戸時代までの歴史を、中国・インドなどとの比較・交流を視野に入れ、対自然関係史という視点から描き直すと、現在私達が直面している環境問題を担い、解決するための歴史的遺産が見えてくるのではないだろうか。今日お話しした私の一試論が、問題の解決に少しでも寄与することを願って、結びにかえたい。
  
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